祖先を供養する:瞑想哲学
私たちは祖先を大切に思っている。祖先がいなければ、今の自分はここに存在していないからだ。だが、最も古い祖先は宇宙の起源だ。それはいまでも心の中に生きている。
私たちは祖先の墓をつくり供養します。色々な供養の形式はあるかもしれませんが、その人なりの形式で祖先を敬い、感謝の心を向けます。私たちはそうすることが大切なことだと心の何処かで知っています。
でも、祖先とはいったい誰なのでしょうか。当たり前に考えれば、それは自分の親であり、祖父母であり、そのまた先祖になります。自分には馴染みがないかもしれませんが、現実に祖先は10代さかのぼれば千人を超え、20代さかのぼれば百万人を超えています。そのうちのひとりでもいなければ、自分はこの世に存在していません。すべてが自分にとって大切な祖先です。
更にさかのぼれば、私たちの祖先はネズミのような哺乳類であり、古代魚であり、小さな単細胞生物です。更には、それはタンパク質であり、元素であり、素粒子であり、エネルギーです。そして宇宙が膨張した小さな点、ビッグバンが起こる直前の状態の小さなひとつになり、その前の何も無い状態までさかのぼります。
私たちの祖先は見覚えのある人たちだけではありません。祖先を敬い、そのことを大切にするとは、宇宙の起源にまでさかのぼれる話です。祖先を大切にするなら、宇宙の起源をも大切にしなければなりません。祖父母を供養するように、宇宙の起源もそうするべきです。
でも、宇宙の起源は人間と違って死んでいません。死んでないのでお墓も必要ではありません。そのため、私たちはどうやって手を合わせればいいか分かりません。宇宙の起源はどこにいるのでしょうか。それは私たちの心の中に生き続けています。私たちの存在の核として、それはいつでもそこにいます。その核があるから、私たちはいま人間として存在することができます。私たちはそれに手を合わせて供養すればいいのです。私たちがその宇宙の起源に手を合わせれば、親祖先を含めた全存在に手を合わせたことになります。どんな存在もその存在の核と無縁ではないのです。
でも、心の中のことなのに、どうやって手を合わせて供養したらいいのでしょうか。それは瞑想をして、それとひとつになることです。それが供養することになります。もともと供養とは死者に対して尊敬と感謝の念を持って祈ることです。その最高の祈りがそれとひとつになることです。そうすることで、私たちは忘れることなく、自分の原点である存在の核といつも一緒にいることができます。
生命は死を迎えるかもしれませんが、どんな生命も存在の核として残ります。たとえ身体や心が失われたとしても、それだけはどんなことがあっても失われることはありません。すべての生命の生まれ故郷がその存在の核なのです。私たちがそれとひとつになれば、たとえ生命として死を迎えることになっても、いつでもすべての存在と共にいます。
そうなることは全生命体の望みでもあります。私たちはそのことを心の何処かで知っています。だから祖先の墓をつくり、その墓前で手を合わせます。手を合わせているのは、身近な人だけではありません。私たちは宇宙の起源であり、私たちの心の中にある存在の核にも手を合わせています。
私たちが墓前で手を合わせている時に、そのことは知らないかもしれません。でも、いつか私たちは誰に手を合わせているのかに気がつく時が来ます。そう知ったとき、供養する人と供養される人が同じだと分かります。私たちは祖先という身近な存在を通して、すべての宇宙の核心につながり、そして自分の中でひとつになります。これが供養をするということの最終的な行き着く場所であり、そうなることがすべての生命の願いです。
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