本当に信じられること:瞑想哲学
いま、成功している人を信じることは簡単だ。失敗し続けている人を信じることは難しい。だが、成功も失敗も変わっていくものだ。私たちはいったい誰を信じたらいいのだろうか。
私たちは何かを信じています。それは信じられる人だったり、信じられる話だったりします。私たちは何を基準にそれを決めているのでしょうか。私たちが何かを信じるのは、何か決め手があるはずです。それは信じられる人が話したからかもしれませんし、直接自分で確かめたからかもしれません。多くの場合、私たちが何かを信じるかどうか考えているとき、それが自分の期待に応えられるかどうかを基準にします。私たちは自分の期待に応えられるものを信じて、そうでないものを信じないようにしています。
私たちは何かしらの期待があって、それにどれだけ自分が共感できるかを信じる決め手にします。でも、私たちの期待することはいつも同じではありません。それはその時々で変わっていきます。私たちは多くのことを経験しながら、その時の状況で期待することを変えていきます。自分が期待することは特定のこととして決まっているわけではないのです。そのため、今まで信じていたことでも、その時の自分の期待にそわなくなれば信じなくなります。または自分の期待にそうという状況になれば、信じていないことでも、信じるようになるかもしれません。私たちの期待する基準が変わるので、信じることも変わります。つまり、私たちがいま信じていることはかなり不確かな要素を含んでいるということです。
それが本当に信じられることかどうかは、一時的な期待値を指標にしているに過ぎません。もしかすると、今は何の実績が無いようなことでも、それが成功すれば、信じられることになるかもしれません。私たちは成功していない人を信じることはできません。成功しているという実績があって、私たちはそれを信じることができます。このことは自分にも他の誰かにも当てはまります。自分が成功すると期待して、それを信じてやっていることでも、それが期待にそぐわないことだと分かれば信じることを止めてしまいます。誰かが成功を信じてやっていることでも、それが失敗続きであれば、その人のことを信じることはできません。それらが成功して、期待に応える実績が生まれることで、私たちは自分や誰かを信じることができます。
では、いま私たちは何を信じればいいのでしょうか。ある意味、自分が信じていることなど、どれも幻のようなものです。私たちの周りにあることは、信じられるかどうか判断することができない不確定なことばかりなのです。そんなの中で信じられることなどあるのでしょうか。今現在、私たちが確かに信じられることは、自分自身が存在しているこということです。これだけは間違いなく信じることができます。自分が他の誰かに変わったり、何処かに消えてしまうということはありません。自分はいつでもここにいます。それに比べれば、私たちの周りにあることはすべて信じられないことです。誰かの成功も、素晴らしい話も、自分の期待値が変われば、信じられないものになってしまいます。唯一、期待値に影響を受けない、自分という存在だけが信じられることなのです。
でも、私たちは自分が存在しているということを信じていません。それは私たちにとって信じることが難しいこです。なぜなら、自分の存在など誰からも成功として評価されないし、それを知ることが自分の期待に応えることでもないからです。そのため、私たちは自分を知ろうとしません。でも、たとえ私たちが自分を知ることに何の期待も寄せていなくても、私たちはその信じられる自分の存在を確かに感じています。いまは自分を信じられなくても、自分など期待するには不十分だと思っていても、私たちがここに存在していることは事実です。このことを否定せずに認めて、その存在を確かなものとして信じてみることです。
私たちが信じることのできるものは世界にはありません。自分自身だけがこの世界で信じられる唯一の存在なのです。もし、少しでも自分を知ることに期待を寄せるなら、そこから自分とは何かを知ることが始まっていきます。自分を知ったとき、私たちはそれが決して色褪せたり、失われたりしない、本当に信じられるものだと知ります。そうしてこの自分だけが信じられる存在だと知ったとき、私たちは自分の周りの変化する世界のすべてを信じることができるようになります。
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