完全な孤独になる:瞑想哲学
私たちは孤独を恐れている。そのため誰かとの関係性を拡大しようとする。だが、関係性がいくら拡大しても、自分の孤独を埋めることはできない。完全な孤独になるときだけ、私たちは完全な関係性を持つことができる。
もともと私たちは孤独でした。いま私たちは自分と誰かとの関係性をたくさん持っています。その関係性がこの世界における自分の存在意義を形作っています。そしてたくさんの良質な関係性は自分自身の価値を高め、それがなければ、自分の価値は低くなると信じています。そのため、私たちはより良い自分になるために誰かとの関係性を求めています。でも、誰かとの良い関係性があっても、私たちはその関係性に失敗したり悩んだりします。関係性が乱れると自分が乱れている感じます。私たちは乱れてしまった自分を修正するために、その関係性の修復や切り替えを行っていきます。そうして私たちが誰かとの関係性によって何度も混乱を招いてたとしても、その関係性を求めることは止められません。
私たちはひとりになることを恐れたり、孤独であることが恥ずかしいことだと思っています。そのため、私たちにとって誰かとの関係性はなくてはならないものになっています。ただ、私たちは誰かとの関係性を探し求め、それを手にして自分を高めようとしますが、それで自分が高まることはありません。どんなに素晴らしい関係性をたくさん持っていても、それが自分自身を高めることにはならないのです。私たちはその事実を知っていますが、すでに関係性に依存してしまっているため、なかなかそこから抜け出す勇気が起こりません。
私たちは自分がひとりだということを知っています。目を閉じてみれば、そこに感じるのは自分だけです。そこには親しい友人も家族もいません。私たちの本質はそんな孤独なのです。でも、私たちは孤独てあることがいいことだとは認めていません。むしろ、孤独は寂しいことであり、悲しいことだと思っています。そのため誰かとの関係性が自分の存在意義を確実にするという考えから抜け出すことができません。そうして私たちは自分自身の本質を否定しながら生きています。そして決して自分自身の本質になることのない関係性に依存し続けます。
私たちが瞑想するとき、そこで自分自身が孤独であることを知ります。そこではどこを探しても自分しかいないのです。もし瞑想で自分の本質が孤独だと認めたなら、その孤独から何かが生まれてきます。心の中で自分はたったひとりだという事実は他の人にとっても同じです。もちろん、そんな自分自身の真実を受け入れないまま生きていく人もいるでしょう。そうであっても、その真実が失われることはありません。誰でも目を閉じたら、たったひとりなのです。そのひとりの場所はこの世界にひとつしかありません。つまり、私たちがひとりだと認めた場所にはすべての人がいるのです。
私たちはそこはひとりしかいない孤独な場所だと思ってきました。でも、実際にはそこにすべての人がいたのです。世界にはたくさんの人がいます。外の関係性においては、私たちはその中の一部の人しか知ることはできません。しかも、そういった関係性は自分自身になることがなく、外からの関係性という制限によって、人とつながっているようで離れています。私たちがその関係性から反対側を向いて、自分自身の中のひとりしかいないという孤独を受け入れたなら、私たちはその個人的な孤独を超えて、すべての人とつながりを持つことができます。
私たちは世界の誰かとの関係性によって、自分自身を形作ろうとしてきましたが、それは自分自身になることはありませんでした。でも、自分自身の孤独を受け入れたなら、すべての人との関係性を持つことになり、それが自分自身そのものになるのです。自分の中の孤独は恐ろしいものではありません。それは結果的に自分を関係性豊かにするものです。孤独を恐れて誰かとの関係性に依存することは、いつまでも自分をその豊かな真実から遠ざけてしまいます。私たちは誰でも瞑想ですべてとひとつになることができます。ひとつになることができるのは、心の中のその一点だけです。そこで孤独を受け入れて、完全な孤独になるとき、私たちはそこが孤独ではないことを知るのです。
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