神の守護の下で:瞑想哲学
私たちは神に祈りを捧げる。だが、私たちは神がどこにいるのか知らない。瞑想によって、私たちは自分が神だということを知る。そうすれば、神は私たちの一番近いところにいる。
私たちは神に守られていたいと思っています。神に守られて、安心して人生を過ごしたいと望んでいます。私たちは神に手を合わせて、どうか私たちを守ってくれますようにと祈ります。果たして神は私たちを守ってくれるでしょうか。それ以前に、神は本当にいるのでしょうか。もし神がいなければ、私たちの祈りは何の意味もないことになります。
誰か神を見た人はいるのでしょうか。神らしき存在を見た人はいるかもしれません。光り輝いている白衣を着た人を見れば、誰でもそれは神だと思うでしょう。でも、それが神だという確証はありません。それは人を超えた存在かもしれませんが、神かどうかは分からないのです。神とはいったい誰なのでしょうか。宗教を信じていれば、神についてのイメージがあるかもしれません。私たちはイメージとしての神を信じることができます。でも、実際には神について曖昧なままです。
もし、自分自身で神を実感することができれば、信じる気持ちも確かになるはずです。神というのは、この宇宙ができる前に存在していた、ある意味、私たちを含めたすべての存在の祖先です。はじめ神はひとりだけでした。そして始まりの前の世界はすべて神でした。神はひとりでは寂しいので、自分の身体を使って宇宙を創りました。神の身体は様々なものになりました。神は何でも創り出すことがでるのです。宇宙の中に私たち人間も生み出されました。もちろんそれは神の身体で創られています。
神はとても静かです。神の創造物は創られたものとしてのアイデンティティを持ち、それぞれに思いつくまま活動していきました。その活動がどんなことであれ、神はそこに介入しませんでした。神はそれらの祖先として、沈黙を貫きました。もし神が創造物の活動に介入したなら、創造物の活動の自由を損ねてしまいます。神はそれを望みませんでした。そうして私たちはいまここにいます。そして神を探しています。
神はどこにいるのかといえば、私たちの中にいます。私たちのすべてが神によってできています。もし神に出会いたいなら、私たちは瞑想をして、心の中で神を見つけることができます。心の中で静かにして、すべてが消え去ったところ、
そこにいるのが神です。でも、私たちは神を見ることができません。なぜなら、私たち自身が神だからです。目で目を見ることができないように、神は見ることができないけれども、そこにいると分かるものです。私たちが何も無い心の中で分かるのは、そこに自分がいるということです。それが神であり自分自身です。
神はいつでもそこにいました。私たちが分からなかっただけです。それは信じるに足る確かな存在です。でも、この神は私たちを守護してくれるでしょうか。神は私たちが望むようには守護してくれないかもしれません。神の守護とは、ここに存在しているということです。この存在だけは、どんなことが起こっても破壊されません。宇宙のどんなものでも神を破壊することはできません。私たちの存在の形態は変わるかもしれませんが、そうであってもそれが神であることには変わりはないのです。
人生ではいろいろなことが起こるでしょう。それでも私たちが神であることは変わりません。これがリアルな神の守護です。私たちは神に祈ります。その私たち自身が神そのものです。神はいつでもそこにいて存在を守り通します。たとえ私たちが神を信じてなくても、私たちは神であり、その守護の下にあります。
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