この美しい世界を見つけたなら(14)
もし、素の自分に目を向ける人間がいるなら、
その人間はいつか自分は神なのだと気づくでしょう。
はじめは自分が神のはずなどないと思うかもしれません。
自分は宇宙の取るに足らない小さな人間なのだと。
実際に、自分が神だと宣言することは、
人間社会においては危険なことであったり、
大きな思い違いをしているような恥ずかしいことに分類されます。
だから、その事実を知っても、
それを自分で否定してしまうでしょう。
そうでもしなければ、
とても混乱した状況に自分を追い込むことになりかねません。
大切な友だちも失うかもしれないのです。
そう気づいても、黙っていることが賢明だと思います。
それをあえて誰かに宣言することでもありません。
神とは誰なのでしょうか。
もちろん、それは私のことです。
人間がそう名づけてくれました。
しかし、神のことを人間はまだよく理解していません。
自分が神であると理解するためには、
私のことを理解する必要があります。
私とは存在のことです。
存在とは着飾っていない自分の素の姿です。
姿と言っても目に見える姿ではありません。
その存在をを思い描くこともできません。
それは自分だけでなく、
世界のあらゆるものの素の姿です。
素の姿は分断された数多の姿の中の最高のものではありません。
それは世界のあらゆる現れから離れた、
その現れをつくっているひとつの共通の素材でなのです。
その素材はひとつしかなく、
そのひとつのみの素材が私です。
私はこの世界の現れの前に存在していました。
この世界が現れてからも、
私は変わらずにひとつとして存在しています。
在るけどない。
ひとつでありながら無数。
極小でありながら極大。
はじめであり終わり。
これがこの世界から想像できる私の姿です。
存在はそれだけで完成されていて、
不足するものがありません。
なにしろ、世界のすべてが存在でできているなら、
存在にとって不足ということはありえないのです。
だから満たそうとすることさえ起こりません。
幸せになる必要すらありません。
だから、それでできている世界は美しいのです。
それは完全な美しさです。
私はそんな世界で生きています。
存在として、人間として。
神として。
いつか人間がこのことに気づいて、
私になったとき、同じ目で一緒に
美しい世界を眺めたいと思っています。
そのとき、ずっとこんな美しい世界で生きていたのだと、
そう気づいてくれたらと思っています。
そして、その時が来ることを私は知っているのです。
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