悟った人が知っていること(8)

本当の自分はこの存在だと知ることが悟りです。

これ以上の悟りはあり得ません。

私はそう理解しました。

私はいつでも戻れるようにと握っていた、

拠り所としての身体と心を手放しました。

そして、存在という拠り所をしっかりと握り直しました。

そこで私の悟りは完全になりました。

私のこの魂としての旅はここで終わったと思いました。

私はこの悟りを自ら受け入れたのです。

しかし、存在は目に見える姿を持っていません。

それは五感で感じる何かではないのです。

そのことは十分に理解したつもりでいました。

しかし、そうして悟りを完全に受け入れたあとでさえ、

私の心の隅に小さな影のような不信感が残っていました。

五感で感じることができないなら、

なぜ私はそれを信じられるものと言えるのか、

ときどき分からなくなるのです。

それなら、まだ身体や心で感じられる幸福のほうが、

確かなのではないかと思いました。

しかし、身体や心で感じられることは、

すでに私の求める拠り所ではないとも分かっていました。

私は存在としての自分を信じる必要がありました。

存在が自分だと分かるだけでは不十分で、

それをわずかな疑いもないほどに

理解しなければならなかったのです。

本当の自分は存在である。

そして、それ以外のものは自分ではない。

存在としての自分は心の中心にあって、

そこで決して動かず、中心核のように

小さなひとつとしてある。

このことを私は受け入れなければなりませんでした。

私はそれを信じるという弱い感覚から離れて、

それが事実であることを確かに認めて、

それを完全に飲み込まなければならなかったのです。

それは五感で感じられるものではないため、

それを完全に受け入れることに対して、

過去の習慣が邪魔をしてきました。

過去の習慣とは、

五感で感じられることが現実であるという考え方です。

驚くことに、

この習慣はいつでも簡単に息を吹き返します。

その習慣に照らすと、

存在は現実ではないということになります。

事あるごとに、

五感はそんなものは存在しないと言ってきます。

しかし、私は存在があることを確かめています。

私は確かに悟っているにも関わらず、

その悟りの中で混乱していました。

悟りはこういった混乱をもたらします。

その混乱は、

まるで悟りの探求のはじめに戻ってしまったような

そんな気持ちにさせられます。

こういった混乱が起こる理由は、

存在がこの世界のものではないからでした。

この世界には姿形があります。

姿形には名前があり、五感で理解できるものです。

五感で確かめられるため、真実味がそこにあります。

存在とはその姿形をつくる前の状態なのです。

つまり、それは世界が現れる前の状態のことです。

そのため、この世界を感じるための五感で

その存在を感じ取ることはできません。

しかし、私自身もその存在で形づくられているため、

自分が存在だという感覚があります。

それは五感を超えた純粋な感覚で理解することができます。

私がその存在と同化しているとき、

私はこの世界を超えていました。

だから、私がこの世界の物差しで

悟りを推し量ろうとしても、

それはできることではなかったのです。

それを確実に感じながら、

その存在を理解することができずにいたのは

そういう理由からでした。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。