悟った人が知っていること(4)

私が身体と心が自分だと信じていたとき、

私は悟りが与えてくれるだろう夢を描いていました。

私は身体や心にとっての

最高に価値あるものを求めていたのです。

それが悟りだと思っていました。

しかし、私は悟りによって、

自分が身体でも心でもないと知りました。

そう知ったなら、

身体や心のために描いてた悟りへの期待は

無意味なものになります。

私はもう身体や心ではないのです。

私は自分が存在だということを知っています。

その存在とは何でしょうか。

それはとても確かに存在しているこということです。

存在は絶対的でそこには存在以外の何もありません。

それは身体や心のように変化することがなく、

失われることもありません。

それは私という存在の核とか種のようなものです。

それは私にとって身体や心以上に確かなものでした。

悟りとは、

自分の存在のその確かさを知るだけのことでした。

それ以上でも以下でもありません。

ただそれだけのことです。

そこに私が描いてた夢のような幸せはありませんでした。

そもそも幸せとは何でしょうか。

本当の自分としての幸せとは何でしょう。

身体や心だった私にとって、

幸せは具体的に思い描くことができ、

とても現実味があることでした。

それでは、存在としての自分にとっては

何が幸せなのでしょうか。

そう考えると、身体と心があれほど明確に想像できた幸せが、

とても曖昧になった気がしました。

私は何も思い描けませんでした。

悟りは私の幸せの概念を変えてしまったのかもしれません。

実際に、私は悟ることで自分という概念を変えていました。

これは世界がひっくり返るほどの出来事です。

いままで、私はすべてを自分中心に考えていました。

それは悟ったあとも変わりません。

そうであるなら、自分が変われば、

自分の周りの世界も、

幸せの概念も変わることも当然のことでした。

私は新しい自分として、

その自分をもっと理解する必要があると感じました。

空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。「私は誰か」の答えを見つけて、そこを自分の拠り所にするとき、新しい人自分としての生が始まっていくでしょう。