悲しみの傷を抱えたままで(10)

この理解は何の無理もなく起こりました。

それは無理やり信じようとしたり、

そんな存在を想像して作り上げたわけではありませんでした。

しかし、私は自分がその存在であると理解するために、

多くの時間を必要としました。

すぐにそれを理解できたわけではありません。

心の奥からこの世界に戻れば、

身体や心がはっきりとした実感を伴う自分だと

思わざるを得ないからです。

この世界に戻る度に、

座って瞑想していたときのことが夢幻になっていきます。

そして、私はどちらが現実かの判断がつかなくなりました。

そこで、私は心の奥底の存在の自分を

夢幻であると判断することもできました。

実際にそう判断したこともありました。

世界こそ現実であり、

どれだけ自分は存在なのだと思ってみても、

私はそこで身体と心として生きていくことが

避けられない現実の宿命なのだと感じます。

しかし、そう考えているままでは、

いつまでも何の解決もできないことになります。

それが堂々巡りになっていると

知るまでに時間がかかりました。

預言者はこのことを知る道は細く険しいとか、

小さな扉であると言っていました。

まさに、存在の真偽をどう判断するかが難しいところで、

多くの場合、それに価値はないと判断されて、

何の役にも立たないものとして

無視されてきたのだと思います。

しかし、「私の」悲しみを完全に消し去る方法は

これしかありませんでした。

存在は悲しみに無理をさせることもありません。

存在にとって悲しみは悪でも敵でもないのです。

悲しみを敵だとして排除しようとすれば、

私の悲しみはますます深くなってしまいます。

それは自分を排除しているようなものだからです。

私が気づいたことは、私は存在であって、

その存在がすべてを創造しているということです。

つまり、すべてが自分だということです。

すべてが自分であるなら、悲しみも自分だということになります。

自分を敵視したり、排除しようとすることに意味はありません。

むしろ、そこにいて良いと、その存在を認めることが自然です。

悲しみには悲しみの生があるのです。

自分が創造主であるなら、それを尊重しなければなりません。

それは無理にそう思っているのでありません。

そういう哲学や思想ではありません。

自分が存在であれば、

それは自然と導き出される当たり前の答えなのです。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。