超人ザオタル(94)生きる意味

その日、私はひとりで散策にでかけた。

朝食の後に外の空気を吸いたくなったのだ。

人々が行き交う町の中心を抜けると、見晴らしのいい丘に出た。

腰掛けるのにちょうどいい岩を見つけて、そこに座った。


緑の草木に覆われた幾重もの丘陵が目の前に広がる。

清々しい風が吹き、それを受けて身体が安らぐのを感じる。

ハルートはどのあたりまで行き着いただろうか。

つい、そんなことを考えてしまう。


この世界は身体にとって過酷だ。

自然に対してあまりにも弱い身体で生きている。

その身体を脅威から守り続けるだけでも大変なのだ。

身体を損なえば、死はすぐそこにある。


だから、死にたくない、病気を直したいと人は願う。

それは人間として当たり前のことだ。

だが、なぜ生きたいのか。

病を治して、どうしたいのか。


この世界で楽しく生きていくためだろうか。

どれだけこの世界で楽しんだとしても、

この身体はいつか死を迎えるのだ。

それを避けることはできない。


死んで、そして生命はまたこの世界に生まれ変わる。

絶え間なく、流れるように人の生死が繰り返される。

そこで何をするべきかが問われているとは知っている。

その答えを出すために、人は賢くなろうとする。


賢くなることは悪いことではない。

厳しい生死の流れの中で何とかしようともがいている。

もがきながら学ぶことは大事なことだ。

それが失敗の山を築くことになるとしても。


その流れの中で、自分は誰なのかという疑問が生まれる。

その疑問が大事な疑問なのかは分からない。

だが、なぜこの世界で生きているのかという疑問に答えるためには、

自分が誰なのかという謎解きは避けて通れない。


この短い人生の中で、その疑問の回答を得るのは難しいことだ。

ようやく、その疑問の重要性を知って、終わることも多々あるだろう。

世界が楽しいことで溢れていれば、そのことに目が向いてしまうものだ。

だが、私たちにはアフラの波動がある。


そう願えば、自分が誰かの答えを知ることができる。

それが人の唯一の希望なのだ。

この身体はこの世界のものであり、世界が何かをさせるだろう。

その世界の流転に従って、生きていくしかないのだが。


空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想を実践する中で、いままで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そうして「私は誰か」の答えを見つけ、そこを自分の拠り所にするとき、新しい視点で人生を見つめることができるようになります。