超人ザオタル(90)自我の理由
この段階でも自我はまだ残っています。
そして、存在である真我について懐疑的な見方をしています。
真我をほんとうに自分としていいのか。
それほどまでに真我は自我に尽くしてくれたのか。
真我は自我に何を与えてくれただろうか。
安らぎか、願望の実現か、豊かな人生か。
しかし、真我が自我に与えたものは何もないのです。
しかも真我には姿かたちがありません。
真我は姿かたちなく、動くことなく、何の意図もない。
つまり自我によい人生を送らせる何かを持っているわけではないのです。
自我が人生に嘆いていても、真我は何もしません。
それは冷たい無関心や何の力もない存在に思えるでしょう。
それでもいいと思うことはできますが、
現実に自我の人生は世界で続いていて、
様々な解決しなければならない問題に直面していきます。
そんなとき、真我はどうしているでしょうか。
もちろん何もしていません。
何かをしているのだと言う人もいますが、
それは真我を万能の神だと錯覚している人の言葉です。
真我は万能の神ではなく、神をも超えた存在なのです。
そんな真我に自我は自らを委ねることができるでしょうか。
自我は真我に対して危険性すら感じるでしょう。
守護されることなく、与えられるものもなく、助けてもくれません。
ただそこにいて、じっとしているだけなのです。
自我が何かを求めて声高に叫ぼうとも、
真我は真我として在ることを止めはしません。
どう説得しても、決して動くことはないのです。
その状況に変わりないなら、自我は真我を諦めることになるでしょう。
頑固で思い通りにならない真我など役に立たないと思うのです。
それよりも自我を助けてくれる神を信じます。
心地いい言葉をかけてくれる賢者に自らを委ねます。
そうして自我は真我から離れていきます。
ここで自我から真我への転移は断たれます。
いったん断たれたつなぎ目を元に戻すことは簡単ではありません。
真我は無意味であり、無力であると判断されたのです。
そして、それは正しく、そうでないと証明することができません。
自我は真我を離れて、もとの自我へと戻っていきます。
自我を強め、洗練させ、向上し進化することに照準を絞ります。
それが生きる意味であり、人生の目的なのだと信じるのです。
これが、多くの人が『私は誰か』の答えを出せずにいる理由です」
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