超人ザオタル(88)瞑想の可能性
人は遅かれ早かれ、この道の最終局面に入ることになります。
それはどういうことなのか。
この話を続けていこうと思うが、
質問の答えになっているだろうか、ハルート」
「ええ、よく分かりました。
どうぞ話を続けてください、ザオタルさま」
ハルートの静かだが鈴のような声が部屋の濃密な空気を震わせた。
まるで神殿での厳かな祭事のようだと思った。
「ありがとう、ハルート。
自分とは誰なのか。
それは瞑想によって明らかにされるものです。
瞑想以外でそれを知ることは不可能なことであり、
たとえそれが他の方法でできたとしても、
かなり精度が低いものになるでしょう。
しかしながら、瞑想は取り扱いを間違えると、
そこもまた、霧の中の迷路を彷徨うようなことになります。
瞑想中の何が自分と言えるのだろうか。
静寂や無心でいることだろうか。
穏やかなエネルギーの中で気持ちよく漂っていることだろうか。
光を見たり、何かのお告げを受け取ることだろうか。
人は瞑想をすると、そういった経験の中に没入してしまいます。
その心地いい状態の邪魔をする思考や妄想を煩わしいものと感じる。
そこで自分は誰かという探究は忘れられてしまいます。
いかに良い瞑想をするかが求めるものにすり替わってしまう。
良い瞑想。
ほとんどの人はこの言葉に惑わされます。
良い瞑想をすることが瞑想の目的ではないのです。
瞑想で本当の自分を見つけることが目的だったはずです。
良い瞑想をしないと、本当の自分が分からない。
そう思っているのかもしれません。
ただ、誰がそんなことを言ったのでしょうか。
何を根拠として、そうなのだと思ってしまったのだろう。
瞑想で本当の自分を見つけられなければ意味がないのです。
もちろん、瞑想で現実的に癒やされることもあります。
それだけでいいと思う人もいるかも知れません。
しかし、それは瞑想の潜在力のほんのわずかしか使ってないことになります。
瞑想の潜在力は計り知れません。
それは本当の自分へと導き、それとひとつになることを可能にします。
無理なく今までの自分から離れ、それを超えた存在なれるのです。
静寂に浸る忘我の時間を離れ、自らの真実へと向き直る必要があります。
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