超人ザオタル(86)人の試練
ハルートにとっては知っていることかもしれないが、
この話を続けてもかまわないだろうか」
退屈な話になっているかもしれないと、
私はいったん話をそこで区切った。
「ええ、どうぞ話を続けてください、ザオタルさま」
ハルートは微笑みながらも真剣な顔でそう答えた。
私はどこからか湧き上がってくる力の流れにさらされていた。
ハルートの答えに頷くと、私は再び話し始めた。
「私とは誰なのか。
次に人はそれが心の奥底にあると考える。
それは、そう、はじめは慈悲心とか愛だとかと考えるだろう。
人は思考という範疇からは簡単に逃れられないもだから。
人には生きる苦しみというものがあります。
その苦しみを取り去れば、それがすなわち自分になることだと思う。
だけれども、慈悲の心になろうとしたり愛を持とうとしたりすることは、
かえって苦しみを増幅するものです。
結局はそうなれない自分を責めて、苦しめてしまう。
あるいは、そうなろうとして無理を重ねる。
それは心に歪みを生み出すだけとなるのです。
苦しみだけが渦巻き、そこで自分探しは頓挫します。
そこから動き出せなくなり、悲しみだけが溢れていきます。
自分は何のために生きているのか、
ますます分からなくなり、動けなくなります。
その苦しみをあえて受け入れて生きていくこともできるかもしれない。
人生とはそういうものだと、
そこで自分なりに懸命に生きて、
結果として苦しみであり、幸福であっても、
傷つき癒やされながら、それを呼吸するように自分に取り入れる。
それはそれで生き方としてはいいかもしれません。
つまるところ、人はそう生きることしかできないのだから。
ただ、それが人生のすべてなのかという疑問は残ります。
人の可能性はそんなものなのか。
高潔なる慈悲心や愛を持つことも、
賢さや知識を得ることも、可能性の方向ですが、
それさえも、自分を苦しめるのであれば、
自分の心の何かを超えなければならないということです。
それは神秘的な力や呪術を得ることではありません。
それも思考の産物であり、制限された心を超えるものではないのです。
神秘的な力は失われ、呪術は破られるもの。
その先にあるのは苦しみでしかありません。
自分とは誰なのかの探究には大いなる前段があります。
そうして心のことをやり尽くしても、そこで高い壁に阻まれるでしょう。
ほとんどの場合、人はそこで自分探しを諦めます。
もうこれ以上は無理だと思うのです。
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