超人ザオタル(85)初期の自己探究

ハルートと話しているうちに、

私の心は幾分落ち着きを取り戻してきた。

「私は誰なのでしょうか、ザオタルさま」

ハルートは微笑みながらも真顔でそう尋ねた。


「ハルートは誰なのか。

さて、…どこから話したらいいだろうか。

そう、自分とは存在という姿形のない知性のこと。

なぜ姿形がないかというと、それは主体だから。


主体を見ることは決してできない。

この姿形がないということが人を惑わせます。

なにしろ、この身体や思考が自分であると思っていますからね。

ずっと当たり前のように、そういった実体があるものを自分だとしてきた。


自分とは誰なのかという疑問は誰にでも起こりますが、

それはこの身体や思考がどうあれば自分らしくいられるのかということ。

そこでは身体と思考が自分であるという概念から離れてはいない。

最初はこの世界での自分の居場所や価値を探すでしょう。


その居場所や価値が安心して自分らしくいられるなら、

そこが探し求めていた自分だと感じられる。

だけれども、そこは居場所や価値であって、自分ではない。

そう気づくと、急に自分が不安定になった気がするのです。


どれだけ裕福でも、安心して暮らせる家があっても、

理解者である家族や友人がいても、

評価されやりがいのある仕事に取り組んでいても、

その不安定さを打ち消すことはできないでしょう。


自分の居場所や価値のその質をどれだけ高めても、それは同じなのです。

自分の能力を高め、道徳心を培い、

犠牲的な精神で世界に尽くしても、そうです。

それは自分ではない、そう思ってしまう。


もちろん、人間的な質を高めることは決して悪いことではないのです。

それは世界からの要請として起こること。

それに抗う必要もないことです。

ただ、それは本当の自分を探究するという道からは外れている。


それと、知識というものは曲者です。

ここで話している私の言葉も、受け取り手にとっては知識でしかありません。

私は自分の真実から言葉を発していますが、

受け取り手がそれを聞いて真実になることはないのです。


素晴らしい聖者から、どれだけの言葉を受け取っても、

受け取り手は何も変わらないのです。

もちろん、それを聞いて考え方や行動が変わるかもしれないが、

それも身体や思考といった範疇のこと。


それが自分の真実へと変容することはありません。

自分の真実を知るためには、初期において知識が必要ですが、

それは最初だけで、修練においてはその意味が薄らいでいくもの。

最後には知識はまったく必要なくなるのです。


空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。「私は誰か」の答えを見つけて、そこを自分の拠り所にするとき、新しい人自分としての生が始まっていくでしょう。