神の声 第4章:星空の伝承(8)
自由とは何だろうか。
私は自由を求めている。
私が心の闇を消し去りたいと思うのは、
そうすることで自由になれると感じるからだ。
不完全さを突き抜けて、
その先にある完全な自由になること、
これが私の求めている自分への回答だ。
ある師は自由についてこう話していた。
自由になりたいというその思いの裏返しは、
自分は不自由であると宣言していることだ。
私はいつも何かに制約されて不自由だった。
それは規則であったり、
社会的な慣習であったり、人の評価だったりする。
お金があれば自由になれると信じている人は多い。
だが、それもお金という制度の制約がある。
お金で得た自由はその制約の中での自由でしかない。
それでもそれを自由と認めるなら、
人は自由を求めるのではなく、お金を求めるようになる。
お金がなければ自由にはなれないと信じ込むからだ。
そして、お金が自分の求めていた自由を奪っていると考えなくなる。
お金を捨てて自由になろうとする人がいる。
だが、それもお金という制度の制約から免れられない。
お金を持たないという極端なことをすれば、
結局、社会生活が不自由になる。
それで誰かの助けを得ながら生きるのであれば、
それは誰かのお金に頼っているに過ぎなくなる。
自由に生きるはずが、
それを知っている心苦しさと、
それを当たり前のようにしている傲慢さが、
その人の自由を奪うだろう。
それで自由を語っても空虚なだけだ。
師はこう話している。
自由というものを突き詰めていくと、
それは物が有るか無いかだけで計れるものではないと分かる。
きっと、自由はそういった概念を超えているのだ。
この世界の何かの条件とか取り引きとかで得られるものではない。
世界の概念を超えた所にある自由とはどんなものなのか。
それは思い通りに人生を生きるということではなくて、
心の闇の向こうにある忘れられた何かを知ることで
分かるものなのかもしれない。
また、師はこんなことも言っていた。
自由になりたいのなら、
自由そのものを自分の中に見つけることだ。
その自由を見つけて、自由そのものになる。
それは、自由な人間になるのではない。
人間ではない自由そのものになるのだ。
だが、その自由になれる人はごく僅かだ。
なぜなら、人は自由を前にすると、
不自由な自分で良いと、それを拒否してしまうからだ。
自由になることはそら恐ろしいと感じる。
完全な自由になどなりたくないといって、
そっぽを向くのだ。
師のこの言葉は、私にとって不思議な話だった。
完全な自由を目の前にした時、
本当に人は首を振りながらそれを拒み、
不自由さの中に戻っていくのだろうか。
そんなことがあり得るのか。
それでは人が自由になることなど永遠にできはしない。
私も実際に自由を目の前にしたら、
それに怖気づくのだろうか。
それとも、その恐れを超えて自由に触れようとするのか。
私は完全な人間になりたいのだ。
私の中の闇を明るい光に変えて、
そこで完全な自分になって、自由を得ることを望んでいる。
そうなれるのなら、
私は多少の恐れなど構わずに、躊躇なく自由になろうとするだろう。
そうするはずだと思った。
だが、師は言う。
もし、自由を手にしてしまったら、
人間は不自由さを楽しむことができなくなる。
人間は不自由さに苦しみながらも、
実は不自由を楽しんでもいる。
不自由なことに安心を感じることもある。
不自由であることを嘆きながらも、
同じ境遇の不自由な仲間がいることも知っている。
その不完全さを人間同士のつながりで補い合っている。
だから、自分が完全な自由になってしまったら、
そこから孤立し、
あの馴染みのある不自由さを感じられなくなって、
つまらない人生を生きることになると思うのだ。
自由は孤独になることに等しい。
人は不完全な人間たちの中にいる安心感に頼って生きている。
だから、そこから抜け出して孤独になる勇気がない。
それで、完全な自由を目の前にしても、
そんなものは見なかったことにしようとするのだ。
そんな話を聞くと、私にも心当たりがある。
不自由であるがゆえの自分への愛着というものがある。
そして、その不自由さを補ってくれる人に、
愛を感じたりもする。
もし、自分が完全な自由になってしまったら、
私はどうなてしまうのか。
何もかも失ってしまう気がする。
私は心の中の小さな暗闇を照らすだけで良かったのだ。
だが、完全な自分はそんなことを遥かに超えて、
私を今までの人間とは完全な別ものに変えてしまう。
私はそれを恐れているのかもしれなかった。
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