超人ザオタル(79)離脱の瞬間
そこで個我に栄光を与えてしまっては、その先の道を閉ざすことになる。
そこで苦しむのは結局のところ個我なのだ。
つかの間の栄光に溺れ、薄れていく悟りにすがりついている。
存在がそこにあることを退けて、転落してしまった。
その分岐点でアジタは迷っている。
山頂への一歩を行くための試練に立ち向かっている。
「アジタ殿、よくそこまで理解を深められました。
道というものは黙っているが、なかなかどうして難題を突きつけてくるもの。
では、アジタという名前、つまり個我とは何なのでしょうか。
ほとんどの人は個我を自分だと思っています。
世界と自分との線引きを身体というところに置いる。
ただ、存在という自分を知ったとき、その線引きが薄れます。
自分とは存在であるとすると、線引きはその存在の前に置かれるからです。
それでは、個我はどうなるのでしょうか。
個我は世界に返されます。個我とはもともと世界のものなのです。
それは自分という主体ではありません。
このことは瞑想で存在自体になっていると知れば明白なこと。
身体が主体になることはないと分かるでしょう。
なぜなら、それは存在の自分にとって対象だからです。
対象であるなら、それは自分ではありません。
それはもうお分かりかと思いますが。
もし自分を捨てるだけのことなら、それは抵抗があるでしょう。
なにしろ、自分を捨てたなら何も拠り所が残りませんから。
ただ、いまは自分が存在だと知っている。
個我を捨てても、自分はそこにいて、何の問題もないのです。
それを捨てることに抵抗があるのは、それに愛着があるからでしょう。
個我は労苦をともにした仲間であり、信頼関係も築かれています。
それを、はいここまでと切り捨ててるのは、心情的に抵抗があります。
良心は痛むし、罪悪感も起こるでしょう。
そうであっても、個我は世界のものなのです。
元々の居場所であるそこに返す必要があります。
そうしてこそ、個我も世界で生き返るのです。
世界と自分との線引きは明確になり、全体像が決まります。
その全体像で何か不都合があるでしょうか。
それでも個我は自分のもとに戻りたいと懇願するかもしれません。
どんなときも存在であることです。
自分が存在であるということは隠すことができません。
それと向き合い、個我と存在との関係を明確にしていくことです。
個我に教え諭すとは、ただ存在であることです。
決して、言葉で説得させることではないのです。
自分が心身かどうかは、自分で真実を認めるかどうかのこと。
つまり、個我が自分ではないと自ら受け入れる。
その瞬間は、存在であり続けることで、いつか訪れるでしょう。
憑き物が落ちるように、あっけなく個我は離れていきます。
抵抗や疑問があることは悪いことではないのです。
むしろそれさえも道であり、完全な理解へと歩んでいること。
私が与えられる言葉はこのくらいです。
アジタ殿はすでに答えを知っているのですから」
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