超人ザオタル(78)個我の悟り
アジタでいることをやめられるか。
そんな言葉をあの深い静寂の中で聞いたような気がします。
自分が存在であるなら、私はアジタではないことになる。
いままで、私は自分の真実を知りたくて道を歩んできました。
そこで輝かしい神のようなアジタになりたいと願っていたのです。
ところが、ここにきて、そのアジタをやめなければならない。
この道は何という不条理なのだろうかと思いましたよ。
それを認めなければ、道の先に進めないのです。
瞑想から出てから、自分の身体を確かめてみました。
これが自分でないはずがない。
存在が自分だという理解はきれいごとではなかったのです。
思わぬ難題を突きつけられました。
この問題を無視することもできました。
存在が自分だと知っている私として生きてもいいじゃないか。
そうも思いもしました。
ただ、それでは自分の理解を誤魔化していることになる。
ほとんどの人は存在が自分だということで終わりにできるでしょう。
それはある意味、幸せなことです。
しかしですな、私はそれがまだ道の途上だと知ってしまっている。
扉の鍵もその手の中に握っているのです。
ザオタル殿、私はアジタではないのでしょうか。
私は存在だと知っていますが、それはアジタではないということなのか。
ぜひともザオタル殿の深遠なる言葉で、
我が迷いを振り払ってはくれないでしょうか」
よくここまで来られたと、私は感慨深く思った。
この道は、ある意味残酷な一面を持っている。
名前である個我の望みは悟ることだ。
だが、悟るためには個我を捨てなければならない。
つまり、悟った個我になることはできないのだ。
ここまで、個我は悟るために努力を重ねてきた。
あの山を越えれば悟れるというところまでは見えている。
ただ、その山の頂に立つには、個我をそこから追い返さなければならない。
山頂に立つという栄光は、個我に与えられることはない。
個我はこのことに反発するだろう。
無理矢理にでも悟った個我としての栄光を手にしたいと思う。
多分、それらしく着飾ることはできるだろう。
私は悟ったと宣言し、存在についての話もできる。
それで人から尊敬され、特別な人間になったとの思いも深まる。
だが、個我であることを捨てていなければ、それは悟りではないのだ。
いや、それを捨てたとしても、まだ道は続いている。
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