超人ザオタル(77)存在とは何か
アジタはそこで力を緩めて一息ついた。
「つまり、存在とは何か、というところですな。
それが分からなければ、自分が誰か分かりませんから。
私は瞑想で存在を強く意識してきました。
自分は存在であると。
それは思い込み、自分に言い聞かせていたのかもしれません。
しかしですな、存在というのは確かであり、現実なのです。
そこで私はいないとはいえないわけなのですから。
たとえ、そこにいないと言えたとしても、そこにそう言っている誰かがいる。
それが自分でないわけがありません。
これは十人で旅している兄弟が、何度数えても九人しかいないと
嘆いている寓話にも似ています。
すべては無であるという話も、
そこには無であると知っている誰かがいなくてはなりません。
つまりそれは無ではないということ。
そこには知的な存在が確かにいるのです。
私はそれを探しました。
しかし、それを見つけることができません。
存在は確かなのですが、見つけることができないのです。
奇妙な話ですがね。
それで探すのをやめたときに、私はそれを発見しました。
見つけようとしていた自分自身がそれだったのです。
そうであるなら、見つけることなどできるわけがありません。
それはただ存在自身であるとき、分かること。
それでも、私は存在の姿かたちを見たいと思いました。
そのためには鏡でもないと不可能です。
しかし、瞑想のそこに鏡などはありません。
そうして、しばらくはもどかしさを抱えていました。
あるとき、気づいたのです。
存在には姿かたちがないということに。
だから、それのことを無だとか空だとか古の導師は言われていた。
そういうことかと、私は目が覚めた思いでした。
それから私は存在に姿かたちを求めるのをやめました。
ただその存在自身でいるようにしたのです。
何しろ、それがどうあれ存在でいることが現実でしたから。
そうして私は自分が存在であるという理解を深めていきました。
ただ、それが本当に自分なのかという疑問は残っていました。
なにしろ姿かたちがないわけで、それを自分と言えるのか。
それが自分だという現実を突きつけられても、
そう簡単に受け入れられることではなかったのです。
それで今までの自分を思い出してみました。
身体や思考、感情、記憶、能力や性格。
しかし、それらを自分とすることもぼやけています。
この時点で、私は少し混乱してきました。
存在を自分として受け入れていいものだろうか。
それを受け入れてしまったら、私はどうなるのだろうか。
そんな抵抗や恐れも心の中に起こりました。
それでも存在は私の中心で確かさを放っていました。
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