超人ザオタル(60)私の本性

見覚えのある道が見えてきた。

私はあのはじまりの道に戻ってきたのだ。

そこは苦悩の記憶を思い起こさせたが、それでも懐かしい感じがした。

同じ道でありながらまったく違った気持ちで眺められる。


振り返れば草原が遥か彼方まで広がっていた。

あの時は何も分からずにこの地に足を踏み入れたのだ。

普通ならこの底しれぬ広大さに恐れをなして引き返すだろう。

私はこの草原を行くと決断したその自分の勇気に胸を打たれた。


あの時はミスラと一緒だった。

いまはひとりで来た道を戻ろうとしている。

ここを戻ることに意味はあるのか。

私はすでに本当の自分を知ったのだ。


求めていた最終地に到達した。

そのまま草原の家にいても何の問題もなかった。

むしろ残りの人生をそこで悠々と過ごすこともできたのだ。

だが、私はそうすることはできなかった。


道を戻ることは過酷でしかない。

だが、私はその過酷さを求めているわけではなかった。

道を戻ることに意味があると感じたのだ。

それは個人的エゴが何かしらの利得を求めて決めたわけではない。


むしろ直感的でその意味は静寂の中で黙していた。

その決断に対して個人的エゴは恐れたが、私は何の恐れもなかった。

存在である私が何かを恐れるなどありえないことだ。

個人的エゴは存在の支配下にあるためその決定に従うしかない。


ある意味、それは個人的エゴにとっては理不尽な決定だろう。

世界の過酷さに晒されるのは個人的エゴなのだ。

個人的エゴは気楽な人生を送れるものならそうしたい。

だが、訪れた直感はそうさせてはくれない。


個人的エゴとはザオタルの身体と心のことだ。

それはいまもここにある。

私が存在になったからといって、それがなくなったわけではない。

個人的エゴでさえも存在でできているため、なかったことにはできないのだ。


個人的エゴはいわば存在の乗り物として世界を旅していた。

その世界でさえ存在であり、旅する時間も存在なのだ。

つまり冷たい雨も空腹も苛立ちも悲壮感さえ存在であり、

存在にとってはそうであって何の問題もない。


それらが存在であるということは、すべて私だということだ。

ここから見えている真っ直ぐに伸びている道も私なのだ。

そしてこれから起こることもすべて私に他ならない。

なぜ私はまた道を行くのか。


それは世界の精神を成熟へと促すためなのかもしれない。

だが、本当のところは私にも分からないのだ。

世界のことは世界がやっていて、存在は関知していない。

その自然な潮流というものに任せている。


ただ、それも存在であり私であるため、無関係というわけにはいかない。

むしろ、密接な関係性がそこにはある。

その潮流について、存在には責任があるのだ。

どれだけ深い悲しみでさえ存在でできていて、存在にその責任がある。


存在には想像もできない深い懐があって、すべてはそこに包まれている。

世界の暗く冷たい夜も太陽に焼かれた乾いた大地もそこに収まっている。

だからこそ、この真実をひとつひとつの精神に伝えなければならない。

そうすることが潮流であり、存在である私の本性なのだ。


空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい人生が始まっていきます。