神の声 第2章:砂漠の行者(20)最終話

 私はふと香の匂いに気がついて、ゆっくりと目を開けた。

 そこは宮殿のあの部屋だった。

 私は砂の上ではなく、柔らかなソファーに座っている。

 

 部屋の中には誰もいなかった。

 宮殿の中もシンと静まり返っている。

 いつもの心地いい人の気配がしない。

 まるで違う場所にいるような感覚になる。

 

 窓の外に目を向けると、陽の光で明るく照らされた景色がある。

 テーブルの上には香が焚かれた箱が置かれていて、

 誰かがいた痕跡のようにそこから微かに煙が昇っている。

 

 私はここでずっと瞑想していたのか。

 ということは、あの砂漠にいたのは夢の中の出来事。

 はっきりと思い出そうとしても、

 それは薄ぼんやりとした記憶のようにつかみどころがない。

 

 私はソファーから立ち上がると部屋を出てみた。

 やはり宮殿の中には人の気配がしない。

 宮殿の外に出てあの泉に向かった。

 記憶にある道を辿り、あの泉の脇の木陰を見つけた。


 そこに誰かがいる。

 私はそれが誰かを確かめながら木陰に近づいていった。

 あの女が木の幹に寄りかかって座っていた。

 女は目を閉じて瞑想をしているように見える。

 私は女の傍に歩み寄り、そして声をかけた。


「あの、ここで何をしているんですか」

「あなたも瞑想しているんでしょうか」

 私がそう言うと、女は静かに目を開けて私を見た。


「もう分かっているのでしょう」

「あなたはあれを見つけてしまったのね」

「私が誰だか分かるかしら」

 女は微笑みながら、そして少し悲しそうな目で私を見た。


「ええ、分かります」

「あなたは私なんですね」

 私はそう言って、いたわるような目で女を見た。


「そう、私はあなたなのよ」

「あなたの心の中の一部」

「そこで世界を作ってきたけど」

「あなたがあれを見つけてしまったから…」

「私はここを去らなければならないの」

「他の人たちも砂漠に去っていったわ」

 女がそういい終わると、一陣の風が木の葉を揺らして、

 辺り一面に鈴のような音を響かせた。

 そして、女はその風音と共に消えてしまった。


 私は黙って女がいた場所を見つめた。

 そして、その場所に座ると目を閉じた。

 木の葉の揺れる音や泉の甘い匂いが、

 私を包むようにゆっくりと回っている。

 私はその景色を心の目で静かに眺めた。


 しばらくそうしていると、

 木の葉の音も泉の水の匂いも消えていった。

 そして、そこにただ静寂だけが残された。


 冷たい風を感じて、私は目を開けた。

 辺りは夜になっていて、私は砂漠の砂の上に座っていた。

 満月が地平線の少し上に出ていて、

 砂漠を明るく照らしている。

 私は月がこの世界にあったことを思い出した。

 そして、その満月を遮るように、目の前にあの男が現れた。


「おれが誰だか分かるか」

 男は静かにそう私に尋ねた。


「ええ、分かります」

「あなたは私なんですよね」

 私も静かにそう答えた。

 私がそう言い終わると、一陣の風が吹いて砂を巻き上げていった。


 その風の中で、男はホッとするように微笑むと、

「約束を忘れないでくれ」

 そう言って、砂漠の月明かりの中に消えていった。


 私はこれでひとりになってしまったと思った。

 ひとりであることがとても現実的に感じられた。

 私はあの宮殿が夢でこの砂漠が現実だったのかと考えた。


 いや、どちらも現実ではない。

 現実なのは、ここにいる私だけだ。

 私はあの女と男とひとつになって、

 ここに現実を呼び起こしたのだ。


 私は目を閉じて瞑想をした。

 すぐに身体の感覚が消えて、心の中は静寂だけで満たされた。

 私はそこにいるひとりだけの自分を感じ続けた。


 気がつくと私は人間ではなくなって、小さな砂の一粒になっていた。

 そして、ただ月の光を浴びている。

 やがて月の光はその一粒の砂を溶かして、

 私を砂粒から砂漠にしていった。

 私はどこまでも果てしなく広がっている。

 私の意識は眠りの淵まで行って、そこで立ち止まった。


 しばらくすると私の意識が明晰さを取り戻し、

 また一粒の砂に戻った。

 私は静かに目を開けた。

 煌々と光る満月が地平線に沈むところを見た。


 砂漠は漆黒の暗闇に包まれた。

 その暗闇が生き物のように砂漠を溶かしていく。

 私もその闇に溶かされて、闇自体になっていった。

 私は闇になっても、ただそこにいると知っていた。


 そう知っていただけだ。

 それだけが現実だと分かっていた。

 私だけがそれを知っていた。

 それはとても明晰で、眠ることを知らないようだった。

 そこで私は初めて生まれたような気持ちになった。


 遠くの方で明かりが見えた。

 その明かりは徐々に強くなっていった。

 太陽が砂漠の闇を払うようにゆっくりと地平線から昇って来た。


 私は日の出を初めて見る気がした。

 砂漠の地平線から現れる太陽の美しく荘厳な景色に心を奪われた。

 そして、この景色は私が望んだものだと知っていた。


 いつの間にか私は人間に戻っていた。

 人間に戻って、砂の上に座ってじっと遠くを見ている。

 手に触れる砂の感触が初めてのように感じられて驚いた。


 太陽が昇りきると、地平線から誰かが歩いてくるのが見えた。

 その人間の向こうに目をやると、

 小さな木立とその奥に宮殿のような建物があるのが見える。

 どうも人間はそこから歩いて来ているらしい。

 

 その人間は私に向かって歩いてくる。

 それは眉間にしわを寄せて思い詰めたような表情をした男だと分かった。

 なぜ、この男は私の砂漠に足を踏み入れたのだろうか。

 私の心の中に抑えきれない好奇心が起こった。

 

 男は座っている私の近くまで歩いてきた。

 だが、まるで私のことが見えないかのように、

 目の前を通り過ぎていった。

 

 どういうことなんだ。

 私はさらに興味深く思って、男の後を追った。

 私のことを見ることができないということや、

 私以外の人間がこの世界にいることが不思議に思えた。

 

 私は風のように動くことができた。

 ゆっくりと男の後ろ姿を追った。

 やがて日が暮れて、太陽が地平線に沈んでいった。

 砂漠が暗闇に包まれると、男は立ち止まって砂の上に座った。

 そして何やら考えているようだった。

 

 私は男の目の前に座ると、じっと男の顔を見つめた。

 だが、男は私に気が付かない。

 どうも、私とこの男のいる次元が違うようだ。

 この男は何かの壁を作っているようなのだ。

 そんな気がする。

 

 これではいつまでも気付かれないと思ったとき、

 この男の見えない何かとつながった気がした。

 私はその見えない何かを手繰り寄せながら、

 男のいる次元に合わせようとした。

 

 それが段々と合ってくると、声が聞こえてきた。

 それは男が心の中で喋っている言葉のようだ。

 男の考えが私の心の中に直接聞こえてきている。

 他人の考えが聞こえるとは奇妙なものだが、

 それほど違和感がない。

 私はこの男が他人とは思えなくなった。

 

 男は何も喋らずに目を閉じてじっと座っている。

 男が語る心の中の言葉だけが、私の心にささやき続ける。

 そのとき、約束を忘れないでくれという小さな記憶が心の中に弾けた。

 私はこの男のいる場所につながった気がした。

 私は男に声をかけた。


空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。