超人ザオタル(54)知識から理解へ
存在とは何なのか。
それを知らなければ、自分を知ったことにはならない。
それを知れば、自分を理解したことになる。
もちろん最初にそれを知ることは思考的なことだ。
自分が存在だというその言葉だけでは知識に過ぎない。
瞑想での理解とともにそれを捨て去ってこそ真実となる。
ただそうして自分が誰かを理解しても、存在としての自分が変わるわけではない。
つまり、何も変わらないのであれば、それを知ることに意味があるか分からない。
それは存在自体がそこにあることの意味ではない。
その意味は人間の知性など及びもつかないところのものなのだ。
存在があることの意味を探っても、それこそ無益なだけだ。
それよりも、私が存在であると理解することの意味だ。
まずその理解を言語化することは、個人的エゴのために必要なことになる。
個人的エゴの理解の方法が基本的に言葉だからだ。
その言葉を受け取り、それを瞑想で検証していく。
直接自分でそれを確かめられたなら、それは知識ではない理解となる。
その理解をもう一度言葉にしてみる。
それは一種の感覚なので言葉に出来ないかもしれない。
だが、言葉にできなければ、その理解は曖昧なのかもしれないのだ。
言葉と瞑想での検証を重ね合わせることは大事な作業となる。
私もそうして言葉と感覚とを重ね合わせながら自分の真実を探ってきた。
私の理解を言葉にしてみるとこうなる。
まず瞑想で自分とは誰なのかを探っていけば、必ず存在に到達する。
はじめそれは個人の中にある核のようなものだと思われた。
核という言葉を使ったが、そのような塊の姿形があるわけではない。
それにはまったく姿形がないのだ。
だが、そこは確かに自分自身の底であり、そこで完全に静止している。
そして明確に存在しているのだ。
姿形はなくとも、それが存在していないと言うことはできない。
そこで気づくことは、それには個人的な要素がまったくないということだ。
つまりそれは個人の中にある個人を超えた何かだということ。
それは究極の自己であり、そして同時に自己を超えたものなのだ。
自己ではないとしたら、それは何だろうか。
そこには個を区切っている境界というものがない。
つまりそれはすべての物質の共通の素材となり得る存在というべきもの。
誰でも自分を突き詰めていけば、同じこの存在へと必ず行き着くだろう。
そうして私がその存在と同化すれば、そのときすべての人になっているということになる。
そこは境界がなく、すべての個別の意識をつないでいる共通の場所なのだ。
それはとてつもなく巨大で、時間さえも超えている。
ここで私の理解は突然小さな核から宇宙的なスケールに拡大される。
最初それは誰でもない巨大な意識体のように感じられる。
ただ、それを意識体といってしまうとまるで自分とは違う領域に思えてしまう。
それがどれだけ巨大なものであろうと、普遍的なものであろうと紛れもなく自分なのだ。
それが主体であるたったひとりの「私」だということだ。
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