超人ザオタル(52)静寂とは何か
気づくとふたりは瞑想から出てきていた。
何とはなしに私の言葉を待っているようでもあった。
「瞑想はどうだったのかな」
私は柔らかな物腰でそうふたりに聞いてみた。
アルマティが口を開いた。
「瞑想での静寂とは何なのでしょうか、ザオタル。
私がそれを感じるということは、それが自分の中にあるということですよね。
静まり返った暗闇が、私の一番奥底にあるものです。
それが一体何なのか、自分のことなのに分からなくなります」
タロマティもそれに続けて言った。
「静寂でいることが退屈で意味ないのであれば、
それは自分が退屈で意味ないということになります。
道とは自分が誰なのかを知ること。
その結果が退屈で無意味だとするなら、それは道の帰結ではない気がします。
もっと他にあるはずという気持ちになりました。
静寂とは何なのか、私もそれを知りたいのです、ザオタル」
「静寂とは何か」
私はそこで一呼吸置いた。
「そう、静寂とは本当の自分の本性というべきもの。
そこには本当の自分がいるのだ。
そこには本当の自分しかいない。
だからそこには静寂しかない。
ただ、静寂を感じてしまうとそれは本当の自分から離れてしまう。
本性から感覚へと意識の焦点がずれてしまうのだ。
感覚は一時的で移ろいゆくもの。
それは世界に持ち込まれて、淡雪のように溶ける。
いつしか静寂はこの世界の音に埋もれて聞こえなくなる。
だが、本来それは自分の本性だから消えることはない。
瞑想をすれば、それがまたありありと浮かび上がってくる。
それが自分なのだからあたりまえのことだ。
静寂は本当の自分のことだが、それだけのことではない。
それは存在しているのだ。
そこに認識という物言わぬ知性がある。
つまりそれは存在していると知っているということだ。
静寂という感覚だけに埋もれていると、このことを見逃してしまう。
静寂であり、認識であり、存在でもある。
そしてそれはひとつだけだ。
ひとつだけだから、いつでもその存在に戻ってこられる。
それは失われることがないからだ。
自分は決して失われることがない。
そしてその存在は変化しないのだ。
そういったことが静寂として感じられるということだ。
そういった自分を見出していくことが瞑想の道。
それは決して退屈で無意味な道ではなく、驚くべき発見の道なのだ」
私はふたりを説得するのではなく、私の理解していることを淡々と話した。
タロティマが口を開いた。
「それでも私は静寂に意味を見つけられません、ザオタル。
何度静寂に浸っても、きっと同じことです。
たとえザオタルの言っていることが正しくても。
瞑想での静寂は何も変わらないでしょう。
そこにいることに何の意味があるのでしょうか。
本当の自分でいることに何の価値があるのでしょう。
私は瞑想中、ずっとそこにいました。
そして瞑想から出てきましたが、何も変わりません。
それが本当の自分だと知っても、私は何も変わらないのです。
何も変わらないなら、それをする意味が分かりません。
それよりも草原の清々しい朝の輝きの方が価値ある気がします」
0コメント