超人ザオタル(51)境界を超える
道をつくったのは私だ。
それは存在である私が世界へと変貌を遂げた道なのだ。
それはまた存在へと戻る道として残されている。
私が世界で自分を見失ったときにたどる道だ。
私は世界で自分を見失ったままでいられなかった。
自分が自分を知っていることは、一種の義務なのだ。
世界は存在を素材として創造された。
それは素材としての世界に対する責任のようなものだ。
いまよりも古い時代に私はすでに目覚めていた。
根源を忘れてしまった私は、そのときに思い出したのだ。
いまと同じように道をたどって、そこへと到達した。
その瞬間はゆっくりと時間の流れの中に浸透していった。
世界には時間があるために、目覚めが行き渡るのに時を必要とする。
その目覚めの波が、いま私に届いたのだ。
すでに私は目覚めていた。
なぜなら、その存在という根源には時間がないからだ。
アルマティもタロマティもその時間の流れの中にある。
道をつくったのもふたりなのだ。
必ずその根源に戻ることができる。
そして戻る義務があるのだ。
私が知った存在は、これでもまだ一部かもしれない。
それは人間の知能では計り知れないものがある。
分離して力を失った知性では及ばない理解もあるだろう。
それでも、まだ道があるなら、そこをたどって行くことができる。
理解という道はまだ続いているように思えた。
私はゆっくりと瞑想から浮上していった。
ザオタルの身体に戻り、その感触の広がりを感じ取った。
世界の空気を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
目を開けると、まだふたりは瞑想していた。
部屋の中の空気が透明な存在で満ちている感じがした。
すべてが存在で、私はその存在というところでつながっていた。
目を閉じて座っている目の前のふたりさえ私なのだ。
そこに何の境界線もなく、それでいて世界の姿をしていた。
ふたりが瞑想しているときの静寂は私自身でもあるのだ。
すべてが存在であるということは、そういうことだ。
私は多少消化不良気味だったが、その感覚をつかんでいた。
ひとつでありながら分離している。
明らかに矛盾している。
だが、それはどちらかではなく、どちらも真実なのだ。
それが世界を超えたところからの理解なのだ。
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