神の声 第2章:砂漠の行者(11)
空が白んできた。
朝日が夜の闇のベールを取り去り、
そこに広大な砂漠の世界が姿を現していく。
私は立ち上がり、空を見上げて伸びをすると、
地平線から昇る太陽を目指して歩き始めた。
のんびりしていると、すぐに太陽は激しい熱を放ち始める。
そんな記憶が私を本能的に急かす。
思った通り、すぐに太陽の熱は私を焼き尽くそうと襲い始めた。
歩きながら、強い日差しにもう限界かと何度も心が折れそうになる。
諦めて足を止めようとした時、顔を上げるとあのオアシスに辿り着いていた。
私は夢中で池の水を飲み、そして木陰に腰を下ろした。
そして、目を閉じた途端に、そのまま眠りに落ちていった。
「おかえりなさい」
私はあの女の声で目が覚めた。
「また砂漠に行っていたのね」
「まだ、何か未練でもあるのかしら」
女はそう言いながら微笑んで私を見ている。
「ええ、また砂漠に行ってたようで」
「でも、なんとか、またここに戻ってこれました」
私はまだ太陽に焼かれて火照っている身体を感じながら、
そう言って苦笑いをした。
「そうなのね…」
「さあさあ、こんな所に座ってないで」
「あなたの部屋に戻りましょう」
女はそう言うと立ち上がって私の手を取った。
私は幾分ふらつきながら立ち上がると、
女に導かれるままに部屋へと歩いていった。
広い宮殿の中庭を通り抜けていく。
手入れの行き届いたそこでは若い男女がくつろいでいて、
楽しげに話をしたり楽器を演奏したりしている。
ここには苦しみというものがないようだ。
人生の楽しみだけがここにはある。
そんな感じがする。
女に手を引かれて歩いている私は、
まるで苦しみにしがみついて自ら傷つこうとしている愚かな人間のようだ。
若者たちは私に親しみを込めて微笑みを投げかけているようだが、
それは私への哀れみのようでもあった。
私は部屋に入ると、壁際のソファーに腰掛けた。
部屋の中はすでに香が焚かれていて、神聖な空気で満たされている。
その香りで、私は深いくつろぎの中に落ちていくのを感じた。
「あなた、また砂漠で物の怪と会っていたんじゃない」
「どんな話をしたのか知らないけど」
「あの男の話しを信じていると」
「混乱しておかしくなるわよ」
「気をつけないと」
女はそう言って私の頭を軽く撫でた。
「ええ、何だかよく分からない話をしていて」
「確か、本当の自分を見つけるとか、そんな話でした」
「身体と心は自分ではないとか」
「なんか、良く分かりませんよね」
私はあの理解に苦しむ話しを思い出して、
何だか恥ずかしい気持ちになった。
ここの人たちはそんなことなど少しも気にしていない。
それでも穏やかで幸福に満ち溢れている。
そんな穏やかで幸福に満ち溢れていることに、私はなぜ疑問を持つのか。
自分でもおかしなことだと笑ってしまう。
「あなたはまだ自分の幸福に疑問を持っているのね」
「だから、砂漠の物の怪に連れ去られてしまうんだわ」
「それを取り去らないと、いつか砂漠で行き倒れになってしまうわよ」
女は心配そうな顔でそう言った。
「いや、自分でもよく分からないんです」
「自分が何を求めているのか」
「確かにここの暮らしは素晴らしいと思います」
「すべてが完全に満たされています」
「ここなら、私は幸福に囲まれて人生を全うするでしょう」
「それに疑問の余地はありません」
「でも、何かが引っかかるんです」
「本当にこれでいいのかと」
「その何かが完全な幸福に小さなシミをつくっています」
「きっとそのシミは無視してもいいのかもしれません」
「圧倒的な幸福が人生を支配しているのですから」
「だけど、私はそのシミが気になるのです」
「なぜ、それはそこにあるのか」
「もしかするとそれは何かを知るように、私に訴え掛けているのかも知れないと」
「私はここでの暮らしを求めていますが」
「同時にここにないものも求めています」
「だから私は毎晩、砂漠に連れ去られる、そんな気がします」
私が心にあることをそのまま女に話をした。
女は私の話を聞くと、可笑しそうに笑った。
「あらまあ、何かとんでもないところに引っかかっているのね」
「ほんとに、あなたは幸福をひっくり返す何かを発見したいみたい」
「そうして幸福をひっくり返せば、満足すると思っているのね」
「だけど、そのとき、あなたは幸福を失っているのよ」
「あなたは一所懸命に自分の幸福の敵を見つけて」
「それを応援しているみたいで」
「なんか、それって、とっても変なことじゃないかしら」
女はそう言って本当に可笑しそうに口元を手で抑えながら笑った。
私は笑われていることに少し腹が立ったが、
そのうちに自分でも可笑しくなって一緒に笑った。
「まったく、あなたの言う通りだ」
「私はとんでもない思い違いをしているのかもしれない」
「考え過ぎているのか」
「幸福でいることの中に間違いを探そうとするなんて」
「それよりも、幸福を受け入れてそれに浸ればいいんですよね」
「本当に簡単なことだ」
「本当の自分はここにいる」
「幸福に浸っている自分が本当の自分なんだ」
私は笑いながらそう言った。
「身体と心が自分でないとか」
「それって何なのかしらね」
「意味がわからないわ」
「本当の自分なんて、他にどこにもいないじゃない」
「そんなのは幻想なのよ」
「昔の人の創ったおとぎ話」
「オカルト好きな人の伝説よ」
「だって、本当の自分を見つけた人なんて誰もいないんだから」
「たとえ、それを見つけたとしても」
「それで何になるというのかしら」
「幸福に浸れる人生の時間をただ無駄にしただけだわ」
「その時間、あなたの身体と心を使って」
「もっともっと自分の能力を開花させて」
「豊かで美しい人生を創り上げていくことができるのに」
「あなたは可そんな能性に満ち溢れているんですから」
「それが人の人生の素晴らしいところなの」
女はそう言うと自分の言葉に酔ったように恍惚とした。
私もその通りだと思った。
私たちはテーブルを囲んで美味しい食事をして、
愉快な話しに花を咲かせ、楽しい時を過ごした。
その後、私はゆっくりと風呂につかって砂漠の汚れを丁寧に落とし、
清潔な身体でシルクのシーツに包まって柔らかなベッドに横になった。
なんて快適なんだ。
私は目を閉じて楽しい時間の余韻を楽しんだ。
だが、その楽しい余韻を打ち壊すように、また何かが心の中に影を落とした。
それは私が本当に望んでいる生き方なのか。
ただの束の間の快楽ではないか。
過ぎてしまえば安っぽいものだ。
そんなものにしがみついて生きることが本当に良いことなのか。
私はそんな思いが自分から現れてきたことに歯ぎしりをした。
なぜ、私を幸福でいさせてくれないのか。
なぜ、この幸福に疑問を抱くのか。
そんな思いは無視しよう。
そうだ、無視するんだ。
私は固く目を閉じて、快楽のうちに眠ろうとした。
そして、その通りに私は深い眠りに落ちていった。
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