神の声 第2章:砂漠の行者(10)
いや待てよ、私は何を考えているんだ。
ここで男の話を無視すればそれまでだ。
それに、まだこの男の話を最後まで聞いていない。
もしかすると、私の知りたかったことの鍵は、
この男が握っているかもしれない。
そう確か…、そうだ自分とは誰なのかという話だった。
自分とは誰なのか、か。
そんなこと、わざわざ砂漠で知ろうとすることなのか。
たとえそんなことを知ったとしても、
私がこの砂漠にいることに変わりはないだろう。
きっと何も変わりはしない。
だが、それでも、いまの私には男の話しか希望がない。
まだ、男の言っていることが無意味だと決めつけるには早すぎる。
もう少し、この男の話に付き合ってみるか。
「…分かりました」
「それで、その、あなたの伝えたいことって」
「確か、自分が誰かってことですよね」
「その話、聞いてみます」
「時間はたっぷりありますから」
私はそう言ったものの期待半分、疑い半分の気持ちだった。
「よしよし、ようやくだな」
「では、おまえに真実を伝えよう」
「時間はたっぷりあるようで、そうでもないからな」
「おまえが死んでしまったら」
「記憶を失ってまた最初からリセットされる」
「ちょっとかいつまんだ話になるかもしれないが」
「そこは自分でよく消化してくれ」
男はそう言って両手を合わせて揉む仕草をした。
「さて」
男はひとつ咳払いをした。
「自分とは誰かという話だが」
「まずだ、自分とは身体ではない」
「身体でないなら、自分とは身体が感じることでもない」
「それから、自分とは心ではない」
「心ではないから、自分とは感情とか思考とかでもない」
「このあたりのことは分かるか」
男は私の反応をうかがった。
「自分とは身体ではないということですか」
「そう言われると何とも不思議な感じがします」
「この身体が自分ではないということですか…」
「ずっと、この身体が自分だと思ってきたので…」
「この身体が自分の存在の基本だと」
「だから、そう、身体のことを気にかけて」
「病気になりたくないし、危険な目にも会いたくありません」
「心が自分ではないということはもっと分かりません」
「心で考えていることが自分だと思うし」
「気持ちよくなったり、嫌な気分になったり」
「それが自分なんだと」
「自分のために、考えたり判断したりしています」
「それが自分という存在の要だと感じます」
私は男の話が腑に落ちなかった。
「ふむ、なるほどな」
「まあ、それが普通だな」
「身体が自分だと思うから、身体を大切にしようとするのだし」
「そう思わなければ、人間としての自分が成り立たなくなってくる」
「身体が大切だということは否定しない」
「だがな、身体が自分の本体だということはどうかな」
「本当にそうだろうか」
「心もそうだ」
「そりゃあ、考えることは大切だ」
「心の中で何かを考えることは否定するべきものではない」
「心が自分という存在を支えている」
「考えるから自分がいると思えるしな」
「だがな、その心が本当に自分の本体だと言えるだろうか」
「…では、ここで違った角度から自分という存在を考えてみよう」
「自分についてこう定義することができる」
「自分とはひとりしかいない」
「このことについてはどう思う」
男は私の理解力を探るように聞いてくる。
「自分とは…ひとりかですか」
「それはひとりしかいないと思います」
「私が何人もいたら、おかしなことになりますし」
「そもそも他の自分とかに会ったこともありません」
「自分はひとりなんだと思います」
私は質問の真意が分からないまま素直に答えた。
それを聞いて、男はにやりとした。
「そうだろう」
「自分はひとりしかいない」
「この感覚も普通のことだ」
「では、身体がまっぷたつになったら」
「どちらが自分なんだ」
「身体の中には星の数ほどの細胞がある」
「どの細胞が自分なんだ」
「思考は無限に心の中に浮かんでくる」
「どの思考が自分だと言えるのか」
「どの感情が自分だと言えるのか」
「実は自分はたくさんいて」
「それをその時に応じて上手く割り振っているのか」
「だが、自分はひとりだけなはず」
「ということは、たくさんに分割できる身体や心は自分ではないということだ」
「そうじゃないか」
「では、ひとりの自分とは何だ」
男は私に何かを伝えるというよりも、
私から何かを引き出そうとしているようだ。
「確かに、もし自分がひとりであるなら」
「身体や心が自分であるということは」
「説明がつかないことになります」
「感覚としては、いまでも身体と心は自分のような気がしてますが」
「この感覚はとてもリアルで、否定することも難しい」
「でも、自分がひとりであることも否定できない事実です」
「私は確かに私一人なはず」
「ただ、そのひとりの自分が何者を説明することができません」
「これはどういうことなのでしょう」
「自分のことをよく分かっていたつもりだったのに」
「何だかよく分からなくなってきました」
私は話しているうちに頭が混乱してきた。
「そう、問題はひとりの自分が誰だか分からないことにある」
「だが、それが分かれば、おまえの混乱は収まる」
男はそう言い残すと風のように姿を消してしまった。
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