神の声 第2章:砂漠の行者(8)
私は香の芳しい匂いで目が覚めた。
目の前には若くて美しい女が座っている。
あの人だ。
女は目を覚ました私を見て微笑んだ。
「また、砂漠を旅してきたのかしら」
「よっぽど砂漠が好きなみたいね」
女の美しい声と微笑みが私を心地良くさせていく。
「ええ、いつの間にか砂漠にいて…」
「また戻ってきました」
私はばつが悪いように微笑み返した。
「それで今度は砂漠で何か見つけられたのかしら」
女はいたずらっぽい目で私を見た。
「いえ、何も」
「もちろん、ここ以外は…」
「砂漠の中はただ辛いだけの場所でした」
私は困った顔で女を見た。
「そうよ、ここは何の不足もないところ」
「ここでならあなたは幸せに暮らしていける」
「あなたの求めている何かだって、きっとここで見つかるわ」
「砂漠にいったい何があるっていうの」
「砂漠なんかに出かけて、わざわざ辛い思いをする必要なんてないのよ」
女はそう言うと同意を求めるような目で私の顔を見た。
私は本当にその通りだと思った。
砂漠にいったい何がある。
ここには、喉の渇きを潤してくれる池があり、
焼け付くような太陽の熱を遮ってくれる木陰がある。
そして、何より私はここで憩うことで幸せを感じている。
それに比べて、砂漠には私の生命を脅かすものしかない。
砂漠はもう懲り懲りだ。
「こんな木陰でなく、もっと良い場所に行きましょう」
女は立ち上がって私の手を取った。
私は促されるまま立ち上がると、女と並んで歩き始めた。
その木陰からはきれいに掃き清められた砂の小道が続いている。
女が案内したところは美しい大理石でできた宮殿だった。
宮殿には何人もの人々がいて、すれ違う度に笑顔で私に会釈をする。
とても感じがいい人たちだ。
澄んだ空気が程よい風となって宮殿の中を巡っている。
階段を登って、いくつかの部屋を通り過ぎたところで、
女はひとつの部屋の中に入っていった。
「ここがあなたの部屋よ」
「どうぞお好きなように」
女はそう言うと私に微笑んだ。
部屋の中には白いシルクのシーツで整えられた豪華なベッドがあり、
幾つものゆったりとしたソファーが壁際に置かれている。
ひとりでは大きすぎるほどのダイニングテーブルの上には、
たくさんの果物や菓子が皿に盛られていた。
大きく開かれた部屋の窓からは森とその外に広がる砂漠が見える。
私は窓に歩み寄るとその景色を眺めた。
こうして砂漠を見るとその雄大さに心打たれる。
地平線まで続いていく砂の海は荘厳であり、
見ているだけでいかに自分が小さい存在であるかを思い知らされる。
それは胸が締め付けられる生命の危険のような圧迫ではなく、
それを心地よく眺めることのできる名誉に浸っている感じだ。
私は飽きもせず、いつまでもその風景を眺め続けた。
女は黙って私を残して部屋を出ていった。
しばらくしてから、香の箱を持って部屋に現れた。
箱から立ち上る煙が、部屋も心も清浄にするような芳しい香りを放っている。
私は壁際のソファーに座ると女を見て微笑んだ。
女は香の箱をテーブルに置くと、私の隣に座った。
女は神妙な顔で私を見た。
「ところで…」
「あなたには邪悪な何かが取り憑いているようだわ」
「砂漠の物の怪かもしれない」
「何か思い当たることはあるかしら」
「あなたに覚えがなくても」
「この煙がそれを取り払ってくれるわ」
「心配しないで」
そう言って微笑んだ。
「砂漠の物の怪ですか」
「そう言えば、砂漠にいるときに男が現れて」
「何かの話をした記憶があります」
「それがそうなんでしょうか」
私は心配になって女に尋ねた。
「そうかもしれないわね」
「それは宝物に案内するとか」
「そんな話をすると聞いているわ」
女は少し声を潜めて言った。
「そうです、確かにその男は宝物の話をしていました」
「そこに案内すると言われたのですが」
「朝になると、男は何処かに消えてしまいました」
私はおぼろげな夢のように思える砂漠での体験を話した。
「それは…、間違いなく砂漠の物の怪だわ」
「消えたとしても、あなたの心にまだ巣食っているかもしれない」
「でも、ここにいれば大丈夫よ」
「あなたはこの場所に愛されて守られているから」
女はそう言うと私の頬を優しく手の平で包んだ。
「宝物って、何なんでしょうね」
「本当にそれってあるんでしょうか」
私は気になってそう女に聞いてみた。
女は私の顔から手を離して真顔になった。
「そんな宝物なんてあるわけがないじゃない」
「そんなことを信じては駄目よ」
「物の怪はそう言って人を騙して」
「砂漠の中に迷わせて、生命を吸い取るの」
「そういう魔物だから」
女は眉間にシワを寄せてそう言った。
「魔物、ですか」
あの男が物の怪の魔物だって。
そう言われると、そんな気もしないでもない。
突然現れたり消えたりする。
でも、それ程危険な感じもしなかった。
むしろ、私を大切な場所に導こうとしていた。
しかも、それは私が望んだからだ。
私はもっと男のことを思い出そうとしたが、
そうしようとすると何かが邪魔をしてぼやけてしまう。
「まあまあ、そんなことは忘れて」
「食事をしてゆっくりと休むと良いわ」
「とにかく、ここにいれば大丈夫だから」
女はそう言うと優しく笑った。
私たちはテーブルに席を移し、食事をして酒を飲んだ。
そして、二人で冗談話などをして笑い合った。
それはずっと忘れていたとても心地よい時間だった。
そう、かつて私は毎日、そんな時間を過ごしていた。
その時はそれを重苦しく感じていた。
いまでは信じられないことだけども。
なぜ、私はそれを重苦しく感じていたのか。
その心地いい日々を信じなかったことを後悔した。
その後、私は池のように大きな石造りの風呂に入り、
砂まみれになった身体の汚れを落とした。
そして、清潔な服に着替えると、久し振りに柔らかなベッドで横になった。
その心地よさについ顔がほころぶ。
もうそこには砂漠で動物にように寝ている惨めさはなかった。
それでも、それでも何かが違う。
私はこれで満足して良いのか。
何か忘れているような気がする。
そう思いながらも私は眠りに落ちていった。
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