神の声 第2章:砂漠の行者(5)
だが、それでは今までと同じだ。
快楽の日々はあの街でさんざん経験してきた。
私はそれが息苦しくなって砂漠に踏み入ったのだ。
今どれだけ幸福で満たされていても、
いつかその幸福が息苦しくなってくる。
与えられたもので満足することに苛立ってくる。
私はここに長居をしては駄目だと思った。
「あなたは、なぜ幸福で満たされることを拒むのかしら」
「誰もがこれを望んでいるのよ」
「与えられたものは受け取ればいいの」
「それに満たされることは間違ったことではないのよ」
女はそう耳元で囁いた。
「私は…」
「私は自分が幸福を求めているのか分からないんです」
「それが分からなくて砂漠をさまよっています」
私は目を開けて正直にそう言ったが、
女の顔を見て、すぐにこれは何の説得力もない言葉だと気づいた。
「幸福を求めているか分からないですって」
「でも、あなたはここで冷たい水を口にして渇きを癒し」
「木陰で熱した身体を休ませて生命の喜びを感じたのは事実よ」
「結局、あなたはそんな幸福を求めていたんじゃないのかしら」
「それがあなたの知りたかった答えなのよ」
その通りだ。女の言葉には説得力がある。
私が望んだその事実を拒んでいる私は狂人だろう。
いったい自分で何が言いたいのか分からない。
「ええ、あなたの言うことはもっともです」
「私は水や木陰を求めて、そして幸福を得ました」
「それでも、それは求めているものではないんです」
やっぱり私は狂人のようだ。
自分言葉を聞きながら冷静にそう思った。
「あなたの言っていることはよく分からないわね」
「もしかして、あなたはただ自分を痛めつけたいだけなのかしら」
女はそう言って冗談っぽく笑った。
そうかもしれない。
私は自分を痛めつければ、
何か答えが出てくるかもしれないと思い込んでいるのか。
「そうよ。無駄に苦しむことなんてないわ」
「ただ自然に与えられる幸福を受け取って生きればいいの」
「何も考えなくても、気持ちよく生きていけるものよ」
「こうして楽に生きていけるのに」
「なぜ、あなたがそれを拒むのか理解できないわ」
女は私が考えていることが分かるようにそう言った。
私はふと顔を上げて自分の周りを見回した。
数本の大きな木が陰をつくり、
その向こうには透明な水をたたえる池がある。
私の腰の下には手触りも柔らかい冷えた砂があって、
その感触が私を癒やしている。
私が何を考えようと、私の周りのものたちは変わることがない。
それそのものとしてあるだけだ。
私もそのように自然であれば良いのか。
そうだとすると、私が求めている何かは無意味なことなのか。
もう、考えるのは止めよう。
あるがままにこの満たされた感覚に身を委ねよう。
私はそう思って全身の力を抜くと、目を閉じて木の幹にもたれた。
女がそんな私を見て微笑んでいるのが分かる。
私はその感覚に安心して、そのまま眠ってしまった。
芳ばしい香りがして、私は目を覚ました。
私の目の前には、たくさんの食べ物が用意されていた。
いくつもの大きな器に肉や果物などが山盛りになっている。
女が目覚めた私を見て、酒をグラスに注いだ。
そして、どうぞという目をした。
私は自分が空腹であることを思い出した。
空腹感に気がつくと、それは抑えきれない波となり、
遠慮なしに食べ物に手を伸ばした。
そして、夢中で肉や果物を口の中に放り込んだ。
いやでも空腹が満たされていく幸福を感じる。
注がれた酒を口にすると、程よい酔いが幸福をさらに増大させる。
「どう、幸せな気持ちになったかしら」
女がそう私に聞いてきた。
「ええ、とても」
「とても素晴らしい気持ちです」
「こんな気持ちになったのは久しぶりな気がします」
「身体も心も喜びで満ち溢れています」
私は女にそう言って微笑んだ。
「ここにいれば、あなたは毎日こんな生活を送れるわよ」
「何も心配いらないわ」
「身体と心を幸せで満たしながら」
「ここで人間としての生命を楽しむの」
「私はそのためにあなたにお仕えするわ」
女はそう笑顔で言った。
こんな素晴らしい処があるのか。
まるで夢のようだ。
この女は本当に女神かもしれない。
私は女神に使えられて、特別な存在になったのだ。
これが完璧な成功者になるということか。
誰も知らない砂漠を越えたところにあるこの世界。
ここはあの過酷な旅をしなければ得られない世界なのだ。
私は正しい選択した。
苦しみを乗り越えて、そしてこの天国のようなオアシスにたどり着いた。
きっとそうだ。
食欲が満たされると、私は心地よい眠気を感じた。
そして、柔らかい砂の上に横になると目を閉じた。
近くで香が炊かれているのか、辺りは甘い香りで包まれた。
女が手触りの良い柔らかな薄い布を私の身体に掛けた。
遠くで優しい弦楽の音が聞こえる。
すべてが満たされていた。
なんて完璧な世界なんだ。
私はすっかりこの場所の虜となった。
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