神の声 第2章:砂漠の行者(4)
空が明るくなってきた。
振り向くと、太陽が地平線から夜の闇を力強く掻き消しながら昇ってくる。
あの圧倒的な存在感で世界を支配していた闇が侵食されて、
世界はどんどん光で満たされていく。
その光で冷え切っていた砂漠の砂が次第に暖められていった。
私はゆっくりと立ち上がって、砂漠を見渡した。
どこを見ても地平線まで砂漠が広がっている。
私は太陽が昇ってきた方向を目指して歩き始めた。
とてつもなく果てしないという現実が心の中を支配する。
終わりなどあるのだろうか。
私はどこを目指しているんだ。
誰がそこを目指しているんだ。
私の頭の中でそんな言葉が呪文のように繰り返された。
私は時を忘れてひたすら歩き続けた。
疲れで段々と足取りが重くなっていった。
ふと顔を上げると、はるか彼方に木のような黒い影が見える。
ただの蜃気楼かもしれない。
そう思ったが、それは私にとってすがることのできる唯一の希望だ。
簡単に無視することはできない。
私は自然とそこへと足を向けた。
太陽はが天高く昇る頃、それは生命を育む暖かな優しさから、
すべてを焼き尽くす悪魔に変わっていった。
砂漠に吹く熱風は、私の身体から水分と体力を容赦なく奪っていく。
もし、いま足を止めたらそこで私は終わるという確信が、
生きることを諦めるべきかどうかの瀬戸際に攻め込んでくる。
次第に意識が朦朧としてきて、足取りもおぼつかなっていった。
これは危険な状態だ。
もう駄目かもしれない。
私はこの身体が焼き尽くされる前に、
わずかな日陰でもいいから座って休みたいと願った。
そこへは意外と早くたどり着いた。
あれは蜃気楼ではなかった。
目の前には十本ほどの大きな木が寄り添うように生えていて、
それらが信じられないほど豊かに緑の葉を茂らせている。
その木陰は無慈悲な砂漠にあって夢の世界のように思えた。
木陰だけでなく、その木々のすぐ脇には池があり、
美しく澄んだ湧き水を豊富に湛えている。
私は助かったと思った。
覚束ない足取りで必死に池に駆け寄り、
その際で屈み込むと透明な水を夢中で口に含んだ。
その途端、身体中から起こる至福の歓声を聞いた。
それから私は木陰を求めて這うように木の根元まで行って座ると、
木の幹に背中を預けて目を閉じた。
大きく息を吐いて身体から力を抜いた。
涼し気な風が私の身体を撫でていく。
さっきまで熱風に焼かれて死を覚悟していたのが嘘のようだ。
私はここが天国かのように感じた。
砂漠の中にこんな場所があるとは。
私は自然と笑顔になった。
いままでの苦しみがすべて掻き消され、ただ幸せだけを感じた。
私はいったい何を悩んでいたのか、不思議な気がした。
「そうよ、あなたは何を悩んでいたのかしら」
そう声がして目を開けると、
絹のような白く薄い布をまとった若い女が目の前に座っていた。
女神のような美しい顔に笑みを浮かべて私を見ている。
私はその女を見て更に幸せな気持ちになった。
辺りには甘い香りが漂い、私はそれに心奪われた。
「ええ、ほんとに」
私はそう答えて微笑んだ。
「木陰と水があるだけで」
「こんなにも至福に満ちた気持ちになれるとは夢にも思いませんでした」
「これが私が求めていたものかもしれません」
「答えはこんなにも単純なことだった」
私はそう若い女に言った。
「ここがあなたの知りたかった答えなら」
「それは良かったわ」
女の顔は明るく輝いている。
「そうそう、ここには遠慮なくいて構わないわよ」
「砂漠から歩いて来たんでしょう」
「ここでは砂漠からの旅人を歓迎するの」
「ゆっくりと旅の疲れを癒やすと良いわ」
女はそう言うと更に美しい笑顔を見せた。
私も笑顔で女に応えた。
私はこの至福こそ真実だと思った。
これは自分にとってかけがえのないものだ。
身体も心も生きている歓びで満たされている。
きっと私はこれを感じるために砂漠を旅してきたのだ。
私は心の中の霧が晴れて、そこで果てしない青空を仰ぎ見る思いがした。
いや、待てよ…。
何かが違う。
これは私が求めていたものではない。
突然、そんな思いが心の中に起こった。
私は顔を曇らせ目を閉じて腕を組んだ。
「どうしたの」
「何を考え込むことがあるのかしら」
「ここで考え込むなんて、今のあなたに似つかわしくないわ」
「あなたはこの心地よさに身を委ねて十分に満たされればいいのよ」
女が私の顔を見て怪訝そうに言った。
そして、やわらかい手で私の頬に触れた。
女の吐息は心を快楽に引き寄せる強く甘美な香りがした。
私はそれまでの思考を止めて、やはり女の言う通りかもしれないと思い直した。
きっと、砂漠での過酷な旅が私の心を狂わせている。
疲れ果てた身体と心が素直にこの瞬間の快楽を受け止めきれないのだ。
「考えすぎては駄目よ」
「いまの幸福を感じるの」
「そうすれば、あなたは解き放たれるわ」
「考えすぎることは自分を縛って毒を放つようなもの」
女の言葉は私の疑念を破壊しようとする。
そして、私はその自分の疑念が破壊されることを望んでもいる。
深く考えなければ、何の問題もないのだ。
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