神の声 第2章:砂漠の行者(2)
私の目の前で太陽が地平線に沈んでいく。
私はその地平線を目指してひたすら歩いて行く。
歩く度に小さな砂埃が足元で小さく舞い上がる。
そして、その痕跡はあっと言う間に風の中に消えていく。
もうあの街での満ち足りた生活に後戻りはできない。
一瞬、そんな思いが頭をよぎったが、すぐにそんなことはどうでも良くなった。
そして、振り向くことさえ嫌悪している自分が誇らしく思えて笑みを浮かべた。
太陽が地平線に触れると見る間にそれは姿を消していった。
残照さえもあっけなく消えて、夜の闇が砂漠を覆い尽くしていく。
星明かりに気がついて、ふと空を見上げると、
無数の小さな星たちが震えながら輝いている。
それは見入ってしまうほど美しかったが、深い悲しみを湛えているようでもあった。
まるで闇の中に埋もれないように、
必死になって自分の存在を確かめようとしている姿に映った。
私は小高い砂丘の上に登っていき、
その頂のまだ熱の残っている砂の上に腰を下ろした。
歩くのを止めると砂漠の雰囲気は一変した。
暗闇と静寂に支配されたこの砂漠にあって、
私の小さな命の息遣いが明らかに場違いだと感じる。
すべてを吸い込んでしまうかのような静寂は圧倒的で、
魔物がどこかに生き物が潜んでいないかと目を凝らしているようだ。
そして、異質なものはすべて静寂の闇に飲みこんでしまおうと探っている。
私は急に恐ろしくなり、そして底なしの黒い無力感の中に突き落とされた。
そこでどれだけもがいても、そこから逃れることができない。
私はとんでもない思い違いをして、ここに来ている気がした。
自分が思っていた以上に無力だと思い知らされたのだ。
分かっていたつもりだったが、これほどだとは思わなかった。
成功者のとしてのプライドなど本当に何の役にも立たない。
私はそんな思いと戦うように痛いほど強く固く目を閉じた。
情けないことに、そんな痛みしか今の自分の拠り所にできるものがなかったのだ。
「おまえは自分が無力だと思うのか」
私はその声にはっとして目を開けて前を見た。
目の前に見知らぬ男が向かい合って座っている。
私と同じ格好をしているが、フードを外していて、長い髪を肩の下まで垂らしている。
それが砂漠のかすかな風に揺れていた。
そして暗闇の中なのに星空のような光を両目から放っていた。
その光は冷たくもあり優しくもあった。
「おまえは自分が無力だと思うのか」
男はもう一度そう言って私の顔を覗き込んだ。
その仕草が私をからかっているように思えて少し腹が立った。
「ええ、そうです。私は無力だと思いますよ」
「この砂漠の中では、私の生命など一晩持たないでしょうから」
私は突然現れたこの男に不思議と何の驚きも感じなかった。
前から知っていたようなそんな気がする。
あるいは砂漠で感覚が麻痺してしまったのか。
そして、この男の突然の来訪に、
私の中に現れたあの深く恐ろしい孤独感を邪魔されたような気がして腹が立った。
「なるほどな」
「おまえはオレと話せるんだな」
男はそう言って白い歯を見せて笑った。
そして、突然、私の目の前から消えた。
男がいた場所は星明りに照らされた空間が残されているだけだ。
私が男を見ていた目は遠くの地平線に切り取られた星空を見ていた。
気のせいだったのか。
私は静かに息を吐いて気を取り直した。
砂漠の闇が私の気を狂わせたのかもしれない。
ひとりになると、また深い孤独が私を包み込んできた。
あれは砂漠が見せた、ただの幻だろう。
そう、私はすでに死にかけていて、それで幻影を見たのだ。
私は死という言葉にはっとして、自分の身体に意識を向けた。
随分と冷たくなってきている。
夜の砂漠は北の国のように寒くなる。
私の身体から砂漠の夜はじわじわと生命のぬくもりを奪っていく。
私は砂漠の静寂に見つかって、きっとその怒りに触れているのだ。
このまま生命を吸い取られて、あっけなく死んでしまうのか。
それがここの当然の掟だ。
この砂漠にあっては、誰もがそれに従うしかないのだ。
私は両腕で身体を抱きしめた。
「おまえは生きたいのか」
突然、また目の前に同じ男が現れた。
男は不思議そうな目をして私を見ている。
「おまえは生きたいのか」
私が何と答えようか考えている間に、男はもう一度そう尋ねた。
「ええ、私は生きたのかもしれません…」
私は力なくそう男に答えた。
「なら、なぜここに来た」
「生きたいのなら街にいれば良い」
「ここで待っていても、やって来るのは死だけだぞ」
男はそう言うとからかうように笑った。
確かに、ここに来て身体のことを気にするなどおかしなことだ。
死を免れたいなら、寒さをしのげる街にいれば良い
そう言われると、私はここにいることが滑稽に思えてきた。
いったい私はここで何をしているんだ。
「おまえはここにいることが滑稽だと思っているのか」
男は急に真顔になってそう私に尋ねた。
「ええ、私はなぜここにいるのかと」
「生きたいと思っているのに」
「それで自分がここにいることが不思議に思えて」
私はそう言いながらも、自分の選択が自分で理解できなくなっていた。
私はすべてを捨てても良いから、それと引き換えに何かを得ようと砂漠に来た。
だが、私は想像以上の砂漠の過酷さに晒されて、
消えそうな自分の小さな命を何とか守ろうとしている。
私はこの生命を代償にしてでも良いから何かを求めようとしていたはずだ。
だが、いまだに求めるものさえ分からないまま、自分の生命の灯火を気にしている。
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