神の声 第2章:砂漠の行者(1)
私はただ静かな場所を求めていた。
街の喧騒が心に鋭く突き刺ささるようになり、その痛みに耐えきれず、
私はそこから逃れるように砂漠へと足を踏み入れた。
男がひとりで砂漠へと歩いていく姿は、誰の目からも奇異に感じるはずだ。
街の多くの人が私が覚束ない足取りで歩いている姿を目にした。
だが、誰ひとりとして私を止める者はいなかった。
人々は私が何をしようとしているのか分からないように不思議な顔で見送った。
砂漠に入ることは死を意味する。
だが、私は死を望んだわけではない。
私は知りたかったのだ。
何を知りたかったのか。
それは何とも説明のしようがない。
漠然としている。
何かを知りたかったが、何を知りたいか分からない。
それを知るためには、街の喧騒が邪魔になった。
喧騒は私を意味のないものに引き戻そうとするようで、
そこにいると苛立ちだけが高まって苦しくなる。
私には誰にも邪魔されない静かな場所が必要だった。
それで、ただ砂漠に行かねばならないと思ったのだ。
もちろん、私は急にそんなことを思いついたわけではない。
私なりに自分が何を知りたいのか街で確かめてきた。
毎晩、豪華な食事をしたり、美しい女性たちと戯れて楽しんだりした。
でも、私は自分が何を知りたいのか分からなかった。
あらゆる本を読み、巧みに金を儲け、豪華な家に住み、人から敬われても、
それは分からなかった。
分からないから生きることに支障があるのかと言えば、それはない。
むしろ、分からないから、その時々の人生を楽しめるものだ。
そう思い直した時期もあったが、どうも何かが引っかかる。
やはり、私には知らなければならないことがある。
何かが自分に欠けているのだ。
いつもその思いが付きまとうようになり無視できなくなった。
私は人生の成功者と言われている。
それで、よく人生の成功話を聞かせて欲しいと頼まれる。
私はそれについて熱く語ったものだ。
自分で言うのも何だが、私の見た目は身なりもよく、それに高い教養を備えている。
多分、これは人々が想像する成功者のイメージ通りだろう。
人々はそんな私の言葉を疑いもせずに信じて、私の助言にもよく従った。
だが、私はそんな自分にも明らかに欠けているものがあると知っていて、
何をしてもそれを埋めることができないでいたのだ。
どれだけ欲望を満たしても、そこだけいつもカラカラに乾いている。
そんな自分が本当に人生の成功者だと言えるのか。
他の人々から見れば、そんなことなど大したことないと思えるだろう。
それが満たされてなくても、誰にも咎められない。
私の境遇は誰もが羨むほどに満ち足りているのだ。
だが、私の中の何処かに小さな棘があって、
時折チクチクと心を刺すのだ。
そのとき、私は自分には何かが欠けているということを思い出す。
それは良い気分でいる私を苦々しい思いに突き落とす。
もちろん人々はそんなことなど少しも知らない。
それどころか、人々は私を満ち足りた者として羨望の眼差しを送り続けた。
それで私は弾ける笑顔をつくって満ち足りているフリをする。
だが、そんな偽りの自分にも疲れてきた。
私が欲しいのは人々からの高い評価などではない。
自分で納得できる確かなものだ。
砂漠はそんな私への評価など何の価値もないものにする。
砂漠は成功者としての私を無力にして、私の生命を笑いながらもてあそぶだろう。
私は、そこまで自分を晒せば、欠けているものがあぶり出されるかもしれないと思った。
そして、見えない心の棘を見つけて、それをゆっくりと確実に抜くのだ。
私はそんな妄想をしていた。
だが、そんなことのために、
わざわざこの満たされた人生を捨てることに意味があるのか。
自ら砂漠で無力な自分をさらけ出すことなど、あまりにもバカげたことかもしれない。
そうすることで確実にそれが見つかると保証されているわけではないのだ。
何のために生命を預けるのかも分からずに、砂漠に赴くことはあまりにも無謀だ。
そんなことは分かっている。
私はその無謀な考えを選ぶしか方法がないところまで追い詰められていた。
何というか、それは話して分かる理屈ではないのだ。
乾ききった不毛の砂漠に何があるのか。
もし、何かがあるのであれば、それは私が知りたかったことかもしれない。
もし、何もなければ、何もなかったということだ。
私が知りたかった何かは気のせいであり、取るに足りない気の迷い。
そう知って、砂漠で死ぬだろう。
だが、何かあるのであれば、私はそれを知って、砂漠から戻るだろう。
まあ、それさえも私の妄想だが。
それでもいい。
私は自分でそう納得して街を離れて砂漠の奥へと歩いている。
誰も止める者はなく、自分にも迷いはない。
毎日の快楽に満ちた生活など、
結局そこには何もないと分かって虚しいだけになったのだ。
私は飾り気のない薄茶色の丈の長い服とその上にブード付きのマントを羽織っている。
遠目から見れば、砂の色に溶け込んでいる様だろう。
誰にも見つかりたくはないから、それはそれで良い。
私はこの砂漠で遭難した者になりたくないのだ。
どんなことになっても誰かの助けなど求めない。
私は最後まで完全な成功者としての自分を追い求める。
成功者のフリをした惨めな敗者にはなりたくない。
砂漠でなりふりかまわず助けを乞う姿は滑稽な敗者の姿だ。
自分の内面がそこに現れてしまうだろう。
もし誰かが私を哀れんで救いの手を差し伸べて、私がその手を掴んでしまったなら、
人々からの成功者としての評価は失われ、
私は欠陥品としての自分を人々の前に認めざるを得ず、その先には何もない。
だから、誰にも知られずに砂漠の熱で骨になったとしても、
私は最後まで完璧を目指す者でいるしかないのだ。
あるかどうかも分からない答えを求めて砂漠に赴くからには、
そんな覚悟と誇りくらいは心の中に持ち合わせている。
それはいまの私の中で唯一確かなものかもしれない。
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