神の声 第1章:天使と悪魔(16)
「分かりました…、分かりましたよ」
「とりあえず洞窟に戻って様子を見てきます」
「もし二人が無事なら」
「それを見届けてここに戻ってきます」
「それでいいですか?」
僕はやっぱりここに戻ってきたい。
「ええ、それでいいわ」
「あなたは決していまここで眠ってはダメなのよ」
「誰もあなたの代わりはできないの」
「だけど、あなたに何かを強制することもできない」
「私たちはあなたに道を示すことしかできない」
「あなたは神の言葉を喋ったのよ」
「そんなことができるのはあなただけ」
「だから、あの世界を救ってあげて」
「それができるのはあなただけなの」
白い悪魔はそう言って急に目をうるませた。
一筋の涙が頬を流れていった。
そんなに大事なことなのか。
そんな姿を見せられたら、僕だって気持ちがほだされる。
なぜか申し訳ない気持ちになった。
でも、現実的にだ、いったい僕に何ができるっていうんだ。
そんなに期待されても、何もできることなんてない。
何も知らないし、どうやって世界を救えばいいんだ。
まあ、とりあえず言う通りに洞窟に行くだけ行って、
それでダメなら戻ってくればいい。
僕に考えられることはその程度だ。
「それでいいなら…、それで」
「あの、気持ちが変わらないうちに、さっさと戻してください」
僕は白い悪魔の涙を見てしまった多少の照れもあって、
わざとムッとした口調でそう言った。
「ええ、ありがとう」
「そうね、それでは目を閉じて」
「もう一度、瞑想に入るわよ」
「ただ、あなたは心の中の風を追っていけばいいから」
「それで正しい場所に導かれて…」
白い悪魔の声が聞こえたのはそこまでだった。
僕は目を閉じた瞬間、ここの光が遠ざかっていくのを感じた。
心の中の見えない流れに乗っていて、それに抗うこともできない。
心の中の光が闇に変わっていく。
まるで、突然、世界が昼間から真夜中に変わっていくようだ。
そして、すべてが闇に包まれたとき、僕は目を開けた。
僕は薄暗い森の中であの洞窟の前に立っていた。
まるでデジャブを見ているようだ。
ちょっと待てよ。
僕はここに何度も来ているぞ。
2,3回というレベルではない。
きっと、それは数千回、数万回だ。
僕の背後の森の外から人の声が聞こえる。
楽しそうな話し声や笑い声が、
遠くの記憶を呼び起こすように僕の心を捉える。
それはとても懐かしくて親しみのある記憶だ。
振り向いて森の外に行ってみようか。
僕はそんな衝動にかられて、振り向いて森の外を見た。
いや、あのとき僕はそんな世界を振り切って、
ひとりでこの森に来たんだ。
この森の中に何かがあると感じて。
そう思い直したものの、僕は洞窟に入るかどうか迷った。
この中にはあの天使と悪魔がいて、
いや、もしかすると完全に暗闇に溶けてしまっている。
そこに僕が行ったとして、どうなるものでもない。
いったい僕は何をしようとしているんだ。
やっぱりやめよう、そう思って振り返ろうとしたが、足が動かない。
世界に戻ろうという気持ちにも迷いがある。
僕はさんざんこの世界で生きてきた。
40億年もこの星に閉じ込められて、やれることは全てやったのだ。
できなかったことは、この星から抜け出すことだけ。
この星から抜け出せなければ、
きっと僕の人生はこの後、何十億年も続いていく。
その抜け出すためのたったひとつの道がこの洞窟の中にある。
この人生でやっとそれを見つけたのだ。
振り返って世界に戻ることは簡単だが、
そうしたら僕はまた失敗する。
そうして、いままで何万回も失敗してきた。
いまがその失敗を取り返すときなんだ。
僕は洞窟に向けて一歩を踏み出した。
その一歩は次の一歩になり、段々と早足になっていった。
僕は洞窟の中に入り、奥へと進んでいった。
そして、あの暗闇の空洞に行き着いた。
そこは真っ暗で何も見えなかった。
そこで目を閉じてじっとしていると、
僕はまた身体が溶けるように消えていくのを感じた。
そして、自分という意識だけが残って浮遊しているだけになった。
やがて、その自分という意識さえ消えていって、
あの天使や悪魔とひとつになった気がした。
天使や悪魔だけではない。
僕が今までいた世界のすべてとつながった。
あの果てしない草原の世界もそうだ。
そこで雷にでも打たれたように目が覚めた。
この暗闇が自分であって、それは僕という自分を超えている。
暗闇は生き生きとしていて、歓喜に満ちている。
これが僕の奥底にある現実であり、世界の現実なんだ。
僕はそこですべてを失い、すべてを手に入れた。
小さな星を抜け出して、果てしない宇宙を包み込んだ。
これがひとつということか。
宇宙空間だけではない。
ここに静止しているということで時間のすべても飲み込んだ。
一点に留まるということが時間を完全に支配している。
この瞬間も150億年前も同じなのだ。
僕は150億年前から変わらない自分でいる。
これが僕の、いやすべての本質。
僕は僕を超えて、ただ存在するだけになった。
それ以外は何もなく、それで完全だった。
僕はただ存在しているということに浸り続けた。
それからしばらくして、僕は自分を感じ始めた。
あの人間としての小さな自分がここに現れていく。
身体の感覚も蘇ってきた。
僕はまた以前の人間に戻っていった。
なぜまた人間に戻るのか理解できなかった。
僕は僕を超えて、永遠になったはずなのに。
もう戻らないで欲しいと思った。
だけど、僕はついさっきここに来たばかりの状態になって、
ひとりただ洞窟の暗闇で佇んでいた。
そのとき、僕の中から分身のように天使と悪魔が現れて、
何も言わず僕から離れていった。
天使は白く光る羽を大きく広げて優雅に羽ばたきながら、
あっという間に闇の彼方に飛んでいってしまった。
悪魔は黒く大きな背中を僕に向けたまま、
天使を追うように暗闇の中へと消えていった。
ふと振り返ると洞窟の入り口から差し込む光が見える。
僕は暗闇の空間を後にして、洞窟の入り口に向かって歩いていった。
そして洞窟から外に出た。
僕は森の中を通り抜けて世界へと戻っていった。
そこは晴れ渡る青空と草原の世界だった。
あの女の天使と悪魔は見当たらなかった。
ただ、あちこちに人や動物たちがいるのどかな風景が広がっている。
それがとても新鮮で、僕は思わず深呼吸した。
僕はまた失敗したのだろうか。
いや、僕は知っている。
この記憶だけはなくならない。
僕は自分の中に洞窟があるのを知っている。
真っ暗で何もないところだけど、確かにそれは今も存在しているのだ。
そこはすべてとつながっていて、僕たちの世界に命を与えている。
それが僕の中にあって、消えることはない。
これが僕の真実なのだ。
神が導きたかったことはこういうことだ。
こういうことだった。
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