超人ザオタル(46)私は誰か

私は自分が個人ではないということを認めることができた。

私は存在なのだ。

だが、その存在でいることを持て余していた。

それで身体や心が消え去ることはない。


世界に戻れば身体や心が自分になる。

それを自分ではないと思い込むことはできるかもしれない。

だが、それは思い込んでいるだけで、真実だとは理解していない。

私はザオタルという個人であり、誰もがそう認めている。


アムシャは自分はひとりだけだと言っていた。

つまりそれは、存在か個人のどちらかだけが自分だということだ。

私はベッドに横になりながら、自分の手のひらをじっと見てみた。

これが自分ではないとどうしていえるのだろうか。


身体には触れる感覚があり、それはまさに自分だからだ。

身体こそ自分の本体であると感じられる。

そう思うことはとても自然なのだ。

そうであるなら、私は偽りなく安堵する気持ちになれる。


無理やりそれが自分ではないと考える必要もない。

だがそれを自分とするなら、存在は誰なのだろうか。

それが赤の他人とも思えない。

瞑想ではそれも明らかに私だったのだ。


そこでは存在という私だけしかいなかった。

だからそれが自分だと分かる。

それを消すことも他の自分になることも出来ないのだ。

そう確かめられるのなら、それが自分ということになる。


この世界では、私以外の人間がいる。

その区別となるのが身体だ。

身体が別々だからこそ、これが自分と特定できる。

誰もが自分とは身体だと思っていて、その認識が関係性の基盤になっている。


別々の身体という認識がなくなったのなら、人間同士の関係性はかなり混乱するだろう。

いったい誰が誰やら分からなくなる。

そこには身体という個人の境界線が必要なのだ。

そうだからといって、身体を自分だとすることはできるだろうか。


身体は時とともに老いて、死ぬときが必ずやってくる。

それで自分は終わりなのだろうか。

ロウソクの火がかき消えるように、私はいなかったことになるのだろうか。

そうであるなら、瞑想でのあの明確な私という存在は何なのだろう。


その存在があるために身体は必要ではない。

その存在であるとき、身体は失われている。

どこにも身体はないのだ。

そうであるなら、身体よりも存在が自分として優位だということだ。


存在は時の流れに依存しない。

老いることもなく、死ぬことさえないだろう。

いつも同じものとしてそこに存在している。

やはり、それが私なのか。


それはまた明日の瞑想で確かめよう。

だが、ここでの考えを覚えていられるだろうか。

いろいろとそれについて考えるがすぐに忘れてしまう気がする。

私はそんなことを思いながら、いつの間にか寝入ってしまった。


空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想を実践する中で、いままで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そうして「私は誰か」の答えを見つけ、そこを自分の拠り所にするとき、新しい視点で人生を見つめることができるようになります。