超人ザオタル(44)道への覚悟
困惑していたふたりの顔に静けさが戻ってきた。
「ふたりの気持ちはよく分かるよ。
これも道なのだ。
足で歩く道ではなく、そういった気づきの変化を行く道だ。
それが新しい道になったのだ。
つまり心の道だ。
ただ、道の目指すところは同じだ。
自分とは誰なのか。
自分とは誰なのか、だ。
瞑想の心地いい体験を求めているのではない。
もちろん静けさや思考や夢を求めているのでもない。
いまは自分とは誰なのかだけを求めるときなのだ。
いままでの自分の思考は当然、このことに批判的になる。
それがそれまでの生き方とはまったく違ったものになるからだ。
そこにいたたまれなくなることもあるだろう。
そんなことに意味はあるのかと何度も自問する。
だが、そんな問い掛けに答えられるわけもない。
何しろ、その自分が誰かなど、まだ皆目見当がつかないのだ。
思考にはいままでの実績というものがある。
それに従ってこれまで生きてこられた。
そうして幸せな生活を築いてきた。
それを踏み越えてまで、そんな自分を求める必要があるのか理解できない。
瞑想者は必ずこの壁にぶち当たる。
そして、ほとんどの場合、その思考に負けて潰えてしまうのだ。
自分とは誰かという道はそこで失われてしまう。
そして世界での堅実な実生活に戻っていくのだ。
そこで歓びを見つけ、満たされて生きていく。
それが儚いものだと知っていたとしてもだ。
ある意味、そうなることも必要なのかもしれない。
道が誰かを拒絶することはない。
人が道を拒絶するだけだ。
そうして道を拒絶しても、まだ道の上に立っている。
そう知るときが必ずやってくる。
そして、そこからまた一歩を踏み出せば、すぐに道に戻るのだ。
瞑想でのことをどう捉えるかは二人の自由だ。
だが、そこにしか道はないとふたりとも知っているだろう。
この壁を超えていくのだ。
そして自分は誰なのかだけを静けさの中に見出すのだ。
そうすれば、また道は輝きを取り戻していくだろう。
いや、それはさらに過酷な道かもしれない。
しかも理不尽な過酷さがそこにはある。
自分を知ったとしても、何の利益もないのだ。
何の利益もないことを続けていくことは困難を極める。
終着地でさえ何処にあるかも分からず、それがあるかどうかも確かではない。
この道に必要なことは覚悟だ。
真実には何の利益もないことを潔く受け止めて歩いていく。
思考や周りの人間は批判的になるだろう。
もちろん、この道が必ず正しくて成功する保証などもない。
もしかすると大嘘かもしれないのだ。
いや、それは少し言いすぎかもしれないが。
ただ、偽りか真実かは自分で確かめていくことになる。
誰かの言葉を信じる必要はない。
自分で足元を踏みしめながら、その一歩を自らの力で踏み出していく。
油断なく絶え間なく、目を見開いて進むのだ。
これが瞑想の道であり、自分を知るための探求の旅なのだ」
私が言葉を終えると、部屋はあの静けさで満たされていた。
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