青の記憶(16)恋
「青、入るぞ~」
アンスロポスはのっそりと部屋に入ってきた。
「どうぞ、どうぞ」
青はアンスロポスに笑顔で言った。
アンスロポスは椅子に座ると青を見た。
「また、教えてほしいことがある」
「はい、今度は何でしょう」
青は笑顔のまま答えた。
星は静かだったが、ひそひそ話が聞こえる。
「人は恋をして誰かを好きになったりするだろう」
「あれには意味があるのか」
「傷つくだけで辛いことだと言う人間もいる」
「だが、それは素敵なことだという人間もいる」
「恋をするということはどうなんだ」
アンスロポスは低い声でそう言った。
「人が誰かを好きになるのは自然なことです」
「それが起こるのは自分に足りないものを求めるからです」
「自分ひとりでは不完全で、誰かで足りないものを補いたいのです」
「それで人を好きになり恋に落ちます」
「二人ならば、きっとそれで完全になると思うから」
青はコホンと咳をして続けた。
「ただ、二人が恋をしてつながりを持っても」
「それで完全になることはありません」
「足りないものを補うということは、本当は心の問題なのです」
「人が何かが足りないと思って見つけなければならないものは」
「本当の自分自身です」
「本当の自分自身とつながることだけが人を完全にします」
「他の誰かとつながってもその思いを満たすことはできません」
「その人がどれだけ素晴らしい人だとしてもです」
「だから、いつか恋は覚めていき、この人ではなかったと思います」
「そして別の人を探しますが、結果は同じことです」
アンスロポスは黙って聞いている。
「もちろん、恋をすることは悪いことではありませんよ」
「恋をするなということではありません」
「それはそれで、人間の素敵な営みだと思います」
「ただ、そのことをもっと掘り下げていくと」
「恋することで、いったい自分は何を求めているのだろう」
「そういうところにぶつかります」
「この疑問が恋の本質的なところです」
「いったい、誰と恋したなら自分は完全に満たされるのか」
「きっとそう思います」
「問題はそこのところです」
アンスロポスは落ち着かない様子で腕を組んだ。
「青の言っていることは何となく分かる」
「だがな、恋している時にはそんなこと思えないぞ」
「相手が素敵な人なら、これが人生の最高のことだと信じる」
「それで人生はバラ色になると思うし」
「そうでなくなっても、バラ色にしなければと頑張るものだ」
「そうして、二人で完全に満たされようとする」
「そういうことでは駄目なのか」
アンスロポスはそう言って青を見た。
星のひそひそ話はいっそう大きくなった。
「まあ、それは否定しませんよ」
「でも、本当に満たされる相手が心の中にいるのに」
「それをみすみす見過ごしてしまうのもどうかなと」
「むしろ、自分に不足しているものを補って完全になってから」
「それから恋をすれば、もっと楽しいのではないかとも思えますがね」
「そうすれば、相手に自分の不足しているものを求める必要がないですから」
「恋に夢中になっても、それは純粋に素敵なことになります」
青は微笑みながらアンスロポスを見つめた。
「うむ、確かにそうかもしれないな」
「相手に完全にしてもらおうとすると」
「満たされなくてイライラすることもある」
「そういうことなのか」
アンスロポスは腕組をして目を閉じた。
星は人々の声でざわついている。
「誰かとつながりたいという思いは本質的で正しい欲求です」
「でもその対象は見極めなければなりません」
「もし、それが本当の自分のことだと見極めて」
「自分が本当の自分とひとつになったのなら」
「誰かと恋に落ちても」
「それがどうあれ満たされることに変わりはありません」
「ただ、相手に捨てられる可能性はありますがね」
青はそう言って笑った。
「それはそれで傷つきそうだな」
アンスロポスも苦笑いをした。
「そうかもしれませんね」
「でも、自分は満たされていますから」
「失恋しても満たされています」
「それは失恋したということだけです」
「ところで、アンスロポスさんは誰かに恋をしたのですか」
青はアンスロポスを冷やかすように聞いた。
「いやいや、そういうことではない」
「まあ、仮定としての話だ」
アンスロポスはそう言って頭を掻いた。
「やっぱり、あれだな」
「自分とは誰なのかというところに話は戻るんだな」
「…また来る」
アンスロポスは立ち上がって、部屋を出ていった。
星のざわつきは収まったが、まだひそひそ声が聴こえる。
ときどき小さな笑いが起こっている。
青はそれを聞いて静かに微笑んだ。
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