ウロボロスの回廊 第8章(3)
僕は固唾を呑んで蓋の動きを見守った。蓋が開いたカプセルの中には女性が仰向けで横たわっていた。口には白いチューブが差し込まれている。女性はウッと苦しそうにうめいた。
白いチューブが口から自動的に抜けていく。チューブが抜け終わると、とたんに女性は苦しそうに咳き込んだ。
そして、目を開けた。ハルさんなのか。長い髪の毛が顔を覆っていてよく見えない。女性は天井を見て、何度も大きく呼吸をした。
そうだ、いまは目を動かすだけで、手足を動かすことはできない。僕は我に返って、女性のそばに行った。
「まだ動かないで。しばらくじっとしていれば、だんだん動くようになるから」
僕は軽く頭に手を当てて、女性にそうささやいた。女性は小さくうなずいて目を閉じた。
僕は木の実でつくったコップに水を汲んで、女性に持っていった。女性は目を開けると頭を少しだけ上げて二口ほど飲んだ。そして、また目を閉じた。
そのまま女性は寝息を立てて、眠ってしまった。僕は柔らかい草で編んだシートを女性にかけると、隣のカプセルで横になった。
僕は女性の寝息が途絶えないか心配になったが、疲れていたせいか、そのまま眠ってしまった。
夢の中でハルさんが、待たせたかな、と僕に笑顔で言った。それで、はっとして目覚めた。扉の隙間から陽の光が漏れている。もう、外は明るくなりかけている。
カプセルの女性はまだ眠っていた。小さな寝息がする。僕はそれを確かめると、安心してまた眠りについた。
誰かに揺すぶられて、僕は目が覚めた。カプセルの女性が、手を伸ばして僕の肩を揺らしていた。僕を見て何か喋ろうとしているが、まだ声が出ないようだ。
僕は、無理しないで、といって微笑んだ。
女性に水と果物を持っていった。女性はゆっくりと上体を起こした。大分動けるようになったみたいだ。水をコップ一杯飲んだが、果物はひとくちだけ食べた。
女性が長い髪をかきあげて、僕を見た。
「ハル…さん」
思わず僕はそう声を口に出した。その顔立ちは、間違いなく僕の知っているハルさんだった。女性は不思議そうな顔をして僕を見ている。
「あなたは自分の名前を覚えてますか」
僕は女性のそばに寄って、顔の近くで優しくそう聞いてみた。女性は首を横に振った。僕は女性の手を軽く握った。その温もりは確かにハルさんのものだ。
「僕を覚えていますか」
思い切ってそう女性に聞いてみる。女性は同じように首を横に振った。
ハルさんは無理なインストールで何かの障害が現れると言っていたけど、それは記憶がなくなることなのかもしれない。
「あなたは覚えていないかもしれないけど、あなたの名前はハルです」
女性はしばらくキョトンとしていたが、小さくうなずくと黒い瞳で僕を見つめた。
突然、僕は涙があふれてきた。
この女性は自分のことを何も知らないのだ。
なんとかこらえようとしたが、涙が止まらない。
「あなたの名前はハルです」
理由はよくわかない。
ただ、どうしようもなく涙が出てくる。
「あなたの名前はハルです」
女性は困った顔で僕を見ていたが、そっと僕の背中に手を回して優しく抱きしめた。
「ハル…」
僕は抱きしめられたまま、その懐かしい温もりの中で目を閉じた。
(続く…)第9章:最終話
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