ウロボロスの回廊 第8章(2)
手を伸ばして、ハルさんのカプセルに触れる。金属の冷たい感触が、僕の手に伝わってくる。何の動きもない。
またひとりに戻った。これが僕に与えられた現実だった。
しばらくすると、呼吸が楽になり、手足も自由に動かせるようになった。次第にこの身体の感覚にも慣れてきた。
僕はフラフラしながらも立ち上がって、隣のカプセルを見た。ハルさんはきっと近くまで来ているはずだ。まだ希望を捨てられない。
僕は小部屋の中を歩き回ったり、隅に座ったりして、ハルさんを待った。小部屋の中はあの機械音が静かに響いている。そうして時間だけが過ぎていく。
僕は目を閉じてカプセルに両手を当てて、イライラしながら動いてくれと小声で言った。
プシュッと音がして、僕はハッとなった。小部屋の壁に扉が現れた。扉に文字が表示されている。
[human:10:外出可能…]
僕はその扉の近くに行き、手を当てて、ゆっくりと押し開けた。外は森のようだった。
夜なのかもしれない。暗くて様子がよく分からない。
僕は扉を閉めて小部屋の中に戻った。その晩、カプセルの中で眠った。久しぶりに眠るということをしたような気がした。
気がつくと扉の隙間から光が漏れていた。朝になったのか。扉を開けると、そこは木が鬱蒼と生えている森だった。
僕は外に出てみた。水の流れる音がする。探してみると、小部屋のすぐ近くに小川があった。恐る恐る、その水をすくって口に含んだ。飲めそうだ。
周りを見渡した。木には幾つもの木の実がなっている。手のひら大の赤い実だ。手近なものを取って、二つに割ってみる。ひとくちだけかじる。シャリッとした口当たりのあと、甘さが口中に広がった。これも食べられそうだ。
僕は振り返って小部屋を見てみた。それは小さな苔に覆われた小屋のようだった。いったい、どれだけの時間、僕はここにいたのだろうか。
まだ、少し歩いただけで身体が疲れる。呼吸も乱れて苦しくなる。僕は小部屋に戻り、自分のカプセルに横になった。
ハルさんのカプセルを片手でさすりながら、こうして、少しずつ身体を動かしながら、この世界に慣れていくしかないと思った。
毎晩、僕はハルさんのカプセルの横で眠った。眠る前には、必ずカプセルを片手でさすりながら無言で祈った。
僕は小部屋の前の木や草を取り払って、そこに浅い穴を掘り、焚き火ができるようにした。小川までの道をつくった。柔らかい木の蔓で果実を入れる袋をつくって、少し遠くまで採取に行けるようにした。
小部屋の周りは、だんだんと人の生活が感じられる場所になっていった。気がつくと僕の顔は長く伸びた髭で覆われていた。
あれからどれくらい経ったのだろう。朝と夜が何度も通り過ぎていった。暑い日も凍えるような寒い日もあった。
毎日、僕はそこで生きていくだけで精一杯だった。眠れない夜に、ふと思うことがある。僕はここでこうして生きて、そして死んでいくのだろうか。
人間の再誕生もここで終わる。あれだけ苦労したのに。ひとりではここから先に進めない。
カプセルはあれから全く動く気配がない。これだけ時間が経てば、もう、あの中でハルさんが生きているとは思えない。
僕の身体は森での生活でいつも擦り傷が絶えず、足の裏はまめで固くなっていった。生身の人間というのは生きるだけで辛いものだ。
なぜ、昔の人間たちはこんな生体でいることにこだわったのか。あの公園にいれば、ずっと気持ちいい生活が送れたというのに。僕はこうしている意味が分からなくなった。
孤独で死んでしまおうと思うこともある。ただ、明日にあれば、ハルさんのカプセルが開くかもしれない。その希望だけが僕を支えていた。
そして、「生きていくしかない」そう言ったハルさんの言葉を思い出す。ここでひとり生きていくには小さな支えだが、それでもその言葉だけで明日一日は生き続けようと思い直す。
その日、僕は果実を取りに少し遠出をして、小部屋に戻ってきたときには夜になっていた。僕は真っ暗な森で火をおこして、果物を火で炙って食べた。
小部屋の中に戻ると、ひとつだけパネルが明るくなっているのに気がついた。ハルさんのパネルだ。
ホコリで薄汚れてはいたが、薄明るい光を放っている。僕は夢中でパネルに駆け寄り、
手でホコリを払い、じっとそのパネルを見た。
[…]
[インストール完了…]
[生体を起動します…]
プッと音がして、パネルの電源が落ちた。カプセルからプシュッと音がして、蓋が開き始めた。
(続く…)第8章(3)
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