09:二人の賢者


あるところに二人の賢者がいた。 


ひとりは知識が豊富だった。 

何が正しいことかを知っていたし、 

それを美しい言葉で人に話すことができた。 

その言葉は人を感動させ、勇気を与えた。  


もうひとりは瞑想ばかりしていた。 

瞑想して、そこでの静寂を楽しみ、 

心はいつも至福で満たされていた。 

言葉数は多くないが、その佇まいは美しく、 

その姿だけで人を感動させた。 


知識の賢者はこう考えていた。 

知識こそが人を幸福にする。 


瞑想の賢者はこう考えていた。 

瞑想こそが人を幸福にする。 


お互いに相手の賢者のことを 話には聞いていたが、 

どうせ大したことがない奴だろうと 気にかけないでいた。 


だが、ちょっと気になる。 


あるとき、知識の賢者と瞑想の賢者が会って、 

お互いに人間の幸福について 話をしようということになった。 


お互いに何かモヤモヤしていたので、 

思うところを話して スッキリさせることにしたのだ。 


二人が会ったところは、 

人々が憩う、緑豊かな公園だ。 

陽の光は優しく、 

肌を撫でてく風が心地良い。 


二人はそこで会うと、 

大きな木を見つけて、 

木陰の椅子に座った。 


そして、話しを始めた。 

はじめに知識の賢者が瞑想の賢者に語りかけた。 


人間は何が幸福か知ることができる。 

その知識があるから、 

自分とはどうあるべきか分かる。 

自分がどうあるべきかを正しく知ることで、 

人間として成長し、そして幸福になるのだ。 


瞑想はまるで止まっている。 

そこに知識などないではないか。 

瞑想をすればするほど無知な人間になっていく。 

そうすることが幸福になるとは思えない。 


瞑想の賢者がそれに応えた。 


幸福になろうとしているのは誰なのか。 

その誰かを知らなければ、 

どれだけ幸福になっても、それに価値はない。 


瞑想によって自分を知ることができる。 

それを知ることが幸福そのものなのだ。 

それを知識で知ることはできない。 

誰かの言葉を暗記しても、 

自分を理解したことにはならない。  


黙って目を閉じて、静寂に身を委ね、 

その静止の状態こそが自分そのものだ。 

このことはどれだけ知識があっても、 

自分で瞑想しなければ分からないこと。 


知識は限界がある。 

その限界を越えるのが瞑想だ。 

瞑想があって、 

そして知識が生まれたのだ。 


知識の賢者はそれに応えた。 


瞑想の経験が知識にまさると言うが、 

そもそも知識があるから

瞑想できるのではないか。 


何のために瞑想をするのかということも、 

はじめに言葉があったからこそだ。  

知識がなければ、 

瞑想など眠っているのと同じで、 

何の役にも立たない。 

幸福になることもないだろう。 


そこには人間として生きていく力強さがない。 

じっとしているなど、 

現実世界からの逃避に過ぎない。 

知識は現実を生きるための知恵にあふれている。 

知恵によって自分を知り、世界を知り、 

何が正しいのかを知るのだ。 

その言葉に導かれて生きることが正しい道なのだ。 


瞑想の賢者はそれに応えた。 


それはまったく逆の話だ。 

瞑想があって、そして知識があるのだ。 

知識がどこから起こるのか知らなければ、 

その知識に価値はない。 

知識の源泉を知ってこそ、 

知識に価値が生まれる。  


それに、瞑想は眠っているわけではない。 

目が覚めているときよりも目覚めている。 

そして、そこで真実と向き合っている。 

真実と向き合わない知識なら、 

それこそ逃避と言わざるをえない。 

逃避が幸福になることなどありえない。 


二人の議論はこんな感じで平行線になった。 


ひとりの旅人がこの話を傍らで聞いていた。 

ちょっといいかな。 

旅人は二人に話しかけた。 


二人の賢者は話を遮られて、 

旅人をギョロッと睨んだ。 


話の邪魔をして申し訳ないが、 

ちょっと気になることがあって。 

旅人はそう言うと、頭を掻いた。 


なんだね、それは。 

知識の賢者が旅人に言った。 


どうもその、お二人の話はどちらもごもっともなこと。 

どちらかが間違いということではなさそうだ。  


でも、何かがつながらないでいる。 

それを確かめるために、知識の賢者さんが瞑想をして、 

瞑想の賢者さんが知識を学べばいいのではないのかな。 


ほう、なるほど。 

二人の賢者は顎をさすりながら頷いた。 


そうすれば、どちらが間違っているか、 

分かるかもしれないしな。 

瞑想の賢者が知識の賢者を横目で見ながら言った。 


知識の賢者はフンという顔をした。 


それではどうすればいいかね。 

知識の賢者が旅人に聞いた。 


では、知識の賢者さんが瞑想の賢者さんに知識の本を渡し、 

瞑想の賢者さんが知識の賢者さんに瞑想法を教える、 

そういうことではどうでしょうか。 


いいだろう。 

異存はない。 

二人の賢者は答えた。 


それでは、お互いに本を読み、瞑想をするということで。  

そうですね、 十日後にまたここで会ってお話をしましょう。 

その時には、また違ったお話ができるかもしれません。 


旅人はそう言うと、二人の賢者と分かれた。 


十日後、その場所に来たのは旅人だけだった。 

旅人は三人で話した木陰で足を止めると、 

目を閉じて、しばらくそこで佇んでいた。  


そして、一瞬、微笑むと、 

優しい陽の光と 風が揺らす木の葉のざわめく音の中に 去っていった。 


それ以来、 その木陰はとても静かな場所になり、 

公園の中を行き交う人が、 

時折、そこで不思議そうに足を止める。 


そして、あの旅人のようにちょっと微笑むと、 

そこからまた歩き出すのだ。 


そんな木陰が、誰の心の中にもある。  

空風瞑想

空風瞑想は真我実現の瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。「私は誰か」の答えを見つけて、そこを自分の拠り所にするとき、新しい人自分としての生が始まっていくでしょう。