かみむすび(86)悟りの瞬間
悟りとは何でしょうか、ある朝私は老師にそう尋ねた。
老師は黙って目を閉じて、そのまま微動だにしなかった。
私は老師から伝えられる明確な答えを期待していた。
だが私と老師の間には沈黙の時間が過ぎていくだけだった。
日も暮れかかる頃に老師は口を開いた。
誰も悟ることはできないのだ、ただひとことそう言った。
そんなわけはありません、悟るために私はここで学んでいるのです。
そう熱り立つ私を尻目に老師は言葉を続けた。
もし悟りたいのであれば、自分を捨てなければならぬ。
自分を捨てたなら、そこには悟っている誰もいないのだ。
だが誰かがそこにいる、その誰かが悟り自身なのだ。
その悟り自身は自分が悟りだとは思っていない。
異様な夕闇があたりを包んで、老師の姿が見えなくなった。
何もかもが漆黒の闇に飲み込まれ、私はそこで跡形もなく消えたのだ。
悟りについて学んだ私の膨大な知識さえ一片も残ってはいない。
しかし私はまだそこにいて、ただ自分がいることだけを知っていた。
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