瞑想の声は私の終わりへと導く(最終話)最後の道
意識の目覚めが簡単に起こることはない。
朝起きたら、完全に悟っていたということはないのだ。
可能性は否定しないが、それが起こることを期待するほどでもない。
完全な悟りには理解の順序があるため、それを一気に消化することは不可能だ。
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悟ったと言っている人は悟っているかもしれない。
だが、それは悟りのどのレベルなのかを確認する必要がある。
そこに個人がいるのであれば、悟りの入口辺りなのかもしれない。
大抵の場合、悟ったと言っている人は個人が抜けてないため浅いものとなる。
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浅い悟りはまだ個人に左右されているため、個人の強化につながることがある。
それは意識の目覚めの道から外れたことになる。
悟りによって神格化された個人は、個人の願望を神の願望だと錯覚するだろう。
どれだけ高潔な人であっても、個人が強化されれば心に歪みを生じる。
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悟りはこの世界ではまったく役に立たない。
人を驚かせるような奇跡を起こすこともない。
神格化された個人は人から超人的な能力を期待されるだろう。
だが、その期待に応えることはできない。
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そうすれば、神格化された個人は評判を落とすことになり信頼を失う。
個人はそうなることを恐れて、悟っている自分を取り繕うだろう。
悟っている自分という姿をつくりあげようとするのだ。
それは悟りとして不自然なことになる。
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悟りとはそうあろうとしなくても、そうあってしまうことだ。
何も取り繕う必要はなく、姿かたちをつくる努力もいらない。
ここに個人の期待に反するジレンマが生まれ、心の中で何かが壊れてしまう。
浅いレベルの悟りでは、こういったことが度々起こる。
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謙虚さが必要だと言った古の師は正しかった。
自分でその悟りを悟りでなくなるまで深めていかなければならない。
目覚めた意識が自分にはあるという確信、個人の配置、
その意識と世界との関係、非世界への理解。
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そこに道は続いているのだ。
それを個人が勝手に終わらせることはできない。
悟っている個人はまだまだ何も知らないのだ。
それを徹底的に認め続けることだ。
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瞑想によって悟りは完結する。
あいまいなまま終わるわけではない。
疑問があり、納得できないなら、さらにそこから進む道があるということだ。
それは悟りにとって最も大切な要素になる。
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そして、いつか必ず真実を知ることができる。
意識の覚醒や精神的な悟りを完全に理解する。
そこではじめて本当の自分を知ることの意味に気づく。
目覚めの道はそこで終わる。
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