瞑想の声は私の終わりへと導く(19)精神的な師
存在は何もすることがない。
存在には動きがないのだ。
そこに意思や思考というものがない。
すべては沈黙で語られ示される。
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それはひとつしかないため間違うことがない。
その存在はひとつとして誰にとっても明確だ。
そこに何の性格も性質もない。
すべては在ることで語られ示される。
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人はいつでもこの存在を理解するための精神的成熟の途上にある。
どれだけ高徳な人の言葉であっても、それを知って悟りが完成されることはない。
誰かの超常的な力によって、悟りが完成されることもない。
信じるべきは精神的な師やその言葉ではない。
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自分は何も知らないと思っていれば、それに頼りたくもなる。
頼りにしたい存在は姿形もなく何も語らないのだ。
それでも信じるべきは沈黙の言葉であり、心の中のこのひとつの存在だ。
ひとつの存在を師として、沈黙の言葉が示す道を歩む。
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それが人の信仰の究極的な姿であり、悟りの完成へと直接続く道だ。
もちろん何かの宗教を信じていてもいいだろう。
だが精神的な成熟が為されていけば、その宗教の本質が見えてくる。
結局それが目指そうとしているところは、自分の心の中にしかないと分かる。
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その精神的な師や言葉の未熟さを見ることができる。
ただそれを否定する必要はない。
それらは未熟なだけなのだ。
未熟だと分かれば十分であり、大事なことは自分がそこから先に進むことだ。
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この瞑想の道は個人の精神的な成熟を待ってはじまっていく。
そして個人を超えて、世界を超える。
個人の範囲での悟りはスケールが小さすぎる。
個人を超えたスケールになってはじめて個人や世界を理解することができる。
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誰の心の中にも覚醒した目が存在している。
それを無視していつまでも個人でいようとすることは不可能だ。
究極の師や教えの道は片時も離れずそこに付き従っている。
このことをどう理解するかは個人の精神的な成熟に拠るところが大きいのだ。
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存在を師や教えとすることについて、個人はたくさんの誤解や間違いを犯すだろう。
それはこの世界の理論でそれを理解しようとするからだ。
その意味を本当に理解するためには、覚醒した目そのものになる必要がある。
そのためには個人を捨て去らなければならない。
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そこで個人は多くのジレンマ、矛盾、無理解に襲われる。
もしそれに負ければ、悟りや覚醒を美しい言葉や都合のいい友として紹介するだろう。
それは世界の理論になるため、不完全で歪んだものになる。
それを師としての威厳で取り繕うようなら、さらに醜い何かに変わっていく。
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そんなことも道の途上にはある。
だがこの未熟さのすべては世界の時間の流れが引き起こしている。
すでにすべての人は存在に覚醒している。
これが神の恩寵と呼ばれているものだ。
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神とは他の誰かではない。
それは自分のことだ。
個人としてこの時間の流れにある限り、それをその中で理解する必要がある。
だから、止まることなく瞑想の示す道を歩んでいくのだ。
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