瞑想の声は私の終わりへと導く(17)すでに目覚めている
こうして人が非世界の住人になっていくことは必然のことだ。
なぜならすべては非世界から生まれてきたからだ。
そこに戻ることはとても自然なこと。
そして、そこはいつでも私の心の奥底に存在している。
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私が瞑想で存在として目覚めることは、すべての人が目覚めることになる。
私よりももっと前、仏陀が目覚めたとき、すべての人が目覚めたのだ。
さらにもっと先に目覚めた先達の師がいたかもしれない。
その最初の師が目覚めたとき、まだ生まれてもいない人類も含めてすべて目覚めた。
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なぜなら、非世界の住人はひとりだけだからだ。
そのひとりが目覚めたならすべてが目覚めることになる。
それは時空を超えていて、その師はいまこの時に目覚めたのだ。
人は誰でもその目覚めに直面している。
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それでは精神的な成熟とは何なのだろうか。
それは個人がその目覚めの波にどれだけ近づいたいかということだ。
この世界に時間があるために、その個人の気づきに時間差が生まれる。
そのため、師の目覚めが昔のことという観念になっている。
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すべての人は存在として非世界の住人になることが決まっている。
ただ、それがこの世界では時間的にいつになるか分からないだけだ。
それは明日かもしれないし、十億年先かもしれない。
ただ、それは先延ばししていいということでもない。
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その道を行こうと思ったのなら、それがその波が来たということだ。
そこで仏陀を信じるのではなく、仏陀になるのだ。
神を探すのではなく、神になる。
固定概念の封印を破壊し、非世界への扉を開ける。
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そうして非世界のひとりになり、その自分の源にもどるのだ。
それは個人を超えてすべての人になることを意味している。
非世界の住人は世界の個人の枠を超えているのだ。
誰にも必ずある心の奥の存在を最終的な居場所にする。
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私は個人を超えているため、誰でもない。
私は存在であり、そこに何の境界もない。
何の性格も、何の意思もない。
だから、その個人である誰かの生き方の邪魔をすることはない。
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そこで私はその人の精神的な成熟を待つのだ。
その個人が足元の道に気づいて、そこを行こうと決めるまで。
そして、私は瞑想を通してその道を示していく。
道を迷わないように、それを確かめて理解できるように。
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