瞑想の声は私の終わりへと導く(15)理解のつながり

非世界がこの世界を飲み込んでいるとはどういうことだろうか。

そこはこの世界が不完全なまま眠っている場所だ。

非世界とのつながりが途絶えていれば、それは不完全であることを意味している。

つまり、この世界は不完全でいいのだ。

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この世界を完全にする必要はない。

だが、この世界は不完全なまま眠っている世界だということを理解しなければならない。

そのために、瞑想という目覚めの道が用意されている。

瞑想は眠りから覚めるための道を示しているのだ。

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ただ、私は自分が眠っているとは思えなかった。

この世界で目覚めていて、身体を動かし、何かを考えている。

この状態を眠っているとは思えない。

むしろ瞑想のほうが眠っている感覚に近い。

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私は瞑想の精妙な感覚に自分を置くことで存在を理解していた。

それは自分の深い場所にある小さな点のようなところだ。

瞑想を終えれば、そこから浮上して通常の目覚めの感覚に戻る。

それでも自分は存在だと確信していた。

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私はここが悟りの終着点だと思っていた。

だが、これも配置転換する必要があることだった。

瞑想はその道で二回目の配置転換を求める。

それはこの世界は眠っていて、非世界が目覚めているというものだ。

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そのためには非世界とこの世界を逆転させる必要がある。

まるで蓮の花が泥の中から成長して水面で花開くように。

非世界で目覚めて、この世界を夢のようなものだと確かめるのだ。

これについての詳細はこのくらいにしておく。

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これは瞑想の道でも特に難しいところだ。

少し言い添えるとすれば、これはそうなっているとイメージすることではない。

実際にこれは自分を存在としての、つまり非世界の住人になることではじめて成し得ること。

それが完全でなければ、この蓮の花の瞑想は形骸化してしまうだろう。

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瞑想は私に道を示してきた。

もしそのどこかで私が満足してしまえば、そこで道は途絶えただろう。

そこに疑問があり、それに納得できないという気持ちが私を道の先へと歩ませた。

そして瞑想は明確な答えを私に示してきた。

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多くの場合、その答えは沈黙によって示された。

あるいは、とても微かな短い言葉で。

人類の精神的な成熟はまだまだ時を要するだろう。

自分が個人ではないと理解することさえ困難な時代なのだ。

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その先のことなど、到底理解できるものではない。

だが、数千年前からこのことを理解している人間がいた。

それは仏陀であり、キリストであり、老子、パルメニデスといった師だ。

実際に、存在についての記述がいまに残されている。

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ただ、それを読んだ者は誰もそれを完全に理解できなかった。

目覚めの道には順番があるのだ。

それを無視していては、言葉だけが先行してもただ混乱するだけだ。

理解できない者によって、この順番は無視され、勝手に入れ替えられた。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で今まで気づかなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい人生が始まっていきます。