09:瞑想の力について
かつてスピリット・ウェイカーは私にこう語った。
あなたは身体や心の心地よさを求めている。心地よくなるための方法を探して、それによって心地よさを楽しむ。瞑想もあなたを心地いい状態にしてくれる方法のひとつだ。実際に瞑想をしていると、静かで落ち着いた状態の中で心地よく感じられる。
あなたは心地いい状態を求めているので、瞑想する度にその状態を求めるようになる。そして、その状態を体験したとき、いい瞑想をしたと思うのだ。
だが、瞑想が心地よさを与えてくれるのは少しの時間だけだ。瞑想が終われば、心地よさは消える。そのため、あなたは何度も瞑想をする。瞑想をして、その時だけの心地よさを求め続ける。
私たちが瞑想に心地よさを求めると、そこが瞑想の限界点になる。瞑想にはもっと深い潜在力があるのだが、心地よさで満足していれば、その潜在力は眠ったままだ。
あなたが瞑想で一時的な心地よさを感じ続けていると、それ以上のものを望まなくなる。だが、いつかそんな心地よさにも飽きてくる。そして、もっと心地よいものがあるはずだと他の何かを求めはじめる。
そこで瞑想の役目は終わってしまうかもしれない。瞑想はその潜在力を発揮できないまま手放される。それは瞑想の力がなかったからではない。あなたが瞑想に心地よさ以上のことを求めなかったからだ。
もし、あなたが瞑想の心地よさを手放して、もっと深いところを感じようとするなら、その中にある自分自身の中心そのものまで近づくことができる。
私たちはその中心に近づくことで心地よさを失う。だが、私たちが心地よさを乗り越えて進んだそこは、心地よさを遥かに凌ぐところだ。その場所は心地よさなど取るに足らない小さなことにしてしまう。
そこは心地よさの度合いが高いか低いかという比較で推し量れるところではない。そんな比較を超えた別の次元にある。
その中心は静寂しかない。その静寂が自分自身だ。そこは体験や感覚の中心であり、そこには体験も感覚もない。そこは心地よさを超えた、心地よさの中心であり、ただ静寂でいることしかできない自分自身なのだ。瞑想は私たちをそこまで導いてくれる。
私たちが心地よさにとらわれて、そこから抜け出せなければ、瞑想の導きは心地よさまでしか進めない。自分からその心地よさを捨て去って、はじめて瞑想はその先に進み出す。そして、心地よさを通過して、心地よさの中心に降り立ち、静寂のその場所こそが自分自身の中心地だと知るのだ。
0コメント