瞑想の声は私の終わりへと導く(14)完成された世界
個人は世界で幸福を求めて活動するだろう。
だが、そこに自分が存在だと知る以上の幸福はない。
そう知れば、この世界で最高の幸福をすでに得ている。
しかも、それは存在の特性上、決して消え去ることがない。
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個人は世界で自由を求めて活動するだろう。
だが、自分が存在だと知る以上の自由はない。
そう知れば、この世界で最高の自由をすでに得ている。
しかも、それは存在の特性上、決して消え去ることがない。
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個人は世界で愛を求めて活動するだろう。
だが、自分が存在だと知る以上の愛はない。
そう知れば、この世界で最高の愛をすでに得ている。
そかも、それは存在の特性上、決して消え去ることがない。
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個人がこの世界で得られるどんなものでも、存在以上のものはない。
そうであっても、個人は世界で何かを求めて活動する自由がある。
それが存在の与えた自由だからだ。
個人が消え去る儚い充足感を求めても、何の問題もないのだ。
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ただこの世界のものをすべて集めても、存在の欠片にもならない。
この世界の知識をすべて集めても、存在の知性になることはできない。
この世界の徳をすべて集めても、存在の愛になることはない。
この世界のどんな物事や知識、愛であっても自分を存在にすることはないのだ。
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自分が存在だと知っても、この世界で幸福になるわけではない。
自分が存在だと知っても、この世界で願いが叶うわけではない。
自分が存在だと知っても、この世界で何かの能力が高まるわけではない。
むしろ、その逆のことが起こることもある。
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それで残念だと思うのは、存在をこの世界の常識で推し量ろうとしているからだ。
私は存在としてすでに非世界の住人になっている。
非世界からでは世界の個人とは見ている景色が違っている。
これは非世界の常識を世界に当てはめようとしているのではない。
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存在を世界に当てはめることはできないことではない。
世界で求めるものは決して完成されることがない。
この世界はあらゆるものが変化していて、定まることがないからだ。
そんな世界で最高の幸福を完成させようとしても無理なのだ。
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もちろん、それを求めることはできるし、そうすることを否定しているわけではない。
だが、非世界に於いては、すでに最高の幸福が完成されているのだ。
ただこの完成された幸福を世界に持ち込むことはできない。
これは非世界の住人だけが理解できることだ。
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非世界はこの世界を飲み込んでいる。
この世界の外側に非世界があり、そこから世界が紡ぎ出されている。
そのため世界が非世界を超えることはありえない。
このことを理解するためには、瞑想して非世界の存在になる必要があるのだ。
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