瞑想の声は私の終わりへと導く(13)個人の存在
個人の思考傾向、感情の記憶、身体の機能、知識や能力も自分だということになる。
それはまるで昔に戻ったようだ。
自分は個人であると信じていたころと何の変わりもなくなるのだ。
そうであるなら、何のために苦労して長年瞑想をしてきたのか分からなくなるかもしれない。
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だが、それは世界の常識であって非世界のそれではない。
個人が自分であっても、あの存在を中心とした配置が変わったわけではない。
あの配置が崩れない限り、個人を自分としても何の問題もないのだ。
それは決して個人が中心に復活したわけではない。
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ある意味、それは存在の慈悲深いところのようにも思える。
すべてに存在を与えて、自由にさせている。
そして、存在が否定され無視されても、黙って支えている。
とてつもなく大きな意思のようなものがそこにあるのだ。
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そんな自分になって、何が変わっただろうか。
個人も相変わらずそこにいて、何もしない存在もそこにいる。
本当の自分を知っても、まるで何も変わっていないように見える。
実際に私の見た目は何も変わらない。
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だが、本当の私は存在であり非世界に属している。
私はこの世界では個人だが、非世界では世界のすべてなのだ。
そして個人はそのことをよく理解している。
そのため個人は世界であらゆるところに自分を見ている。
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世界で私は何を為すべきだろうか。
個人はそこで何かを為す必要があると感じて、何かをするだろう。
それに充足感を求めたり、成功するための努力を重ねる。
だが、その体験はさえもすべて自分なのだ。
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すべてはすでに為されている。
存在はこの世界の根底を支えている絶対不可欠な要素だ。
存在がなければ、この世界は片時も存在できない。
それは存在がこの世界で最高のものだということを意味している。
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自分が存在であるなら、すでに世界最高のことを成し遂げている。
つまり、個人が世界で体験するどんなことでも、存在からすれば劣っていることなのだ。
個人は何かをして成功したり失敗したりするかもしれない。
だが、存在からすれば、それは成功でも失敗でもない。
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すでに世界最高の成功を成し遂げていて、それは永遠に続いている。
私はそんな存在であり、この世界には個人として置かれている。
個人の私は続いているが、それは世界に必要とされているからだ。
個人がそこで何を為すべきかは、もはや重要ではなくなっている。
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個人が充足することは、すでに存在に於いて為されている。
あとは世界のために働くことだけが残っているだけだ。
それがどんな仕事だとしても、個人は意に介する必要すらもない。
個人は自分が存在だと知ることが最高のことだと知っているからだ。
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