瞑想の声は私の終わりへと導く(12)配置転換
個人は世界に存在していた。
個人さえも存在でつくられているのだ。
存在でつくられているものが消えることはない。
そのため、存在がこの世界から失われることはない。
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だからもちろん思考も感情も身体も存在している。
世界すら何も変わらずにそこにある。
だが私から見る何かが変わっていた。
それはそれらの配置が変わったのだ。
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今までは個人が私の中心にあった。
それは変わることのない定位置だと思われていた。
その位置にいることで、私は世界を生きていると実感できたのだ。
いまはその中心に存在が置かれている。
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存在を中心として、個人がその周りに配置されている。
その個人は身体や思考として世界と接している。
これが私の正しい配置だ。
それまでの個人中心の配置は私のただの思い込みだった。
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何の確認もしないまま、そうだと信じてきた。
存在は個人の影に隠され、存在しないものとして扱われてきた。
だがそれは正しい配置ではないため、様々な歪みを私にもたらした。
その歪みを正すためには、正しい配置を知らなければならない。
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それが存在を中心とした配置だった。
そしてそれは個人をも生かしている。
存在は周りに個人を配置し、さらにその周りに世界を配置した。
これが真実だ。
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まだ分からないことがあった。
個人や世界はすべて存在でつくられているということだ。
なぜ存在は個人や世界を創造したのだろうか。
存在だけで完全であれば、不完全な個人や世界をつくる必要などあったのだろうか。
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これも私が非世界の常識を知らないがための疑問かもしれない。
本当の自分とは何もすることがない存在だ。
それを補うために、個人が世界を感じるために機能しているとすれば納得できる話だ。
その疑問に完全に答えられたわけではないが、一歩前に前進した感じがする。
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私は本当の自分とは存在だと完全に理解した。
そこから起こることは、不思議なことだった。
これも非世界の常識になるのだろうか。
つまりそれは、個人も世界も私だということだ。
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いままでは個人や世界は自分ではないと理解するために瞑想してきた。
だが、その理解の先には、それらもすべて自分であるという理解があるのだ。
思考や身体も自分であり、世界にあるすべてが自分なのだ。
私とは瞑想で感じるあの存在だけでなく、五感で感じる対象もそうだということだ。
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