瞑想の声は私の終わりへと導く(11)非世界の常識
非世界に於いて分かることは、そこに存在していることだけだ。
それは決して妄想やイメージではない。
存在をイメージすることはできない。
それには姿形がないからだ。
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瞑想は現世界を突破できる唯一の手段だ。
だが、そこを理解するためにはいままでの常識を捨てなければならない。
あたり前のこととして私は世界の常識を基準にして物事を考えている。
それを捨てることは、私に混乱を引き起こした。
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何を基準として非世界を理解すればいいのか分からないのだ。
それが分からなければ、自分とは誰なのかを証明しようがない。
そこにいる知的な存在が自分だとして、それを世界基準で確認してみた。
まずはそこから始めなければ、何の糸口もなかったからだ。
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それは存在しているが、姿形はない。
それは何もまとっていないので、世界のどんなものよりも小さい。
だが、それは何の壁もないため、世界のどんなものよりも大きい。
それを説明しようとするとすべてが矛盾を含んでくる。
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そこは静止していて時間がないため、始まりというものがない。
つまり、そこには終わりもない。
それはすべての世界の物事に存在を与えている。
だが、それはたったひとりしかいない。
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決して動くことはないが、世界においてはすべての動きになる。
決して変化することはないが、世界におけるすべての変化となる。
こういった矛盾が非世界における常識なのだ。
私は自分を知るために、このことを理解する必要があった。
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だが、世界の基準においてそれを理解することは不可能だ。
私は自分の基準を世界ではなく非世界に置かなければならなかった。
非世界の存在が私自身なのだ。
それは瞑想で何度も確かめて、確信は深まっている。
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その確信によって、私は非世界を自分の世界にした。
そうすると、世界では矛盾していたことが、何の矛盾もないと分かる。
それは世界よりももっと大きな視野で見るような感じだ。
その理解が私はその存在なのだということを受け入れていった。
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本当の私とは個人ではなく存在のこと。
私はこのことを理解して、個人から完全に離れることができた。
だが、それで個人がそこから消えてなくなることはない。
個人は個人で存在しているのだ。
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