瞑想の声は私の終わりへと導く(10)非世界の自分
名前を捨てても何かが変わるわけではない。
相変わらず世界では名前で呼ばれて、それが自分のことだと認識している。
ただ、そこから私の何かが変わってしまった。
もとの個人に戻ろうとしても、私はすでに他の何かになった感じがする。
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私は瞑想で自分は名前でないということを再確認する必要があった。
そうしなければ、それはただの宣言でだけであり、中身が伴わないものになる。
私は個人ではない。
このことを何度も瞑想で確認していくのだ。
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さらに個人でなければ、私とは誰なのかを知らなければならない。
それを知らなければ、私はただ個人でなくなっただけで終わってしまう。
私が誰かを知ることで、はじめて本当に個人を捨てることができる。
それまではとても中途半端な状態に置かれる。
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瞑想の道で示されたその先には非世界がある。
非世界においても存在できるのは誰だろうか。
それを実際に瞑想で確認する必要がある。
だが、それは簡単なことではなかった。
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まず、非世界という場所が私を困惑させた。
そこは世界の常識がまったく通用しないところなのだ。
私は自分が誰なのかをそこで探そうとしても見つけることができない。
そこは何かを見つけるために探してはいけない場所だった。
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それを見つけるためには探すことをやめなければならない。
これが非世界での常識だ。
見つけるということは何かの対象を探すことになる。
非世界ではそのそもその対象が存在しない。
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そのため、探すということが無意味なことになる。
非世界で自分を見つけるためには、探すことをやめることから始まる。
探すことをやめることで、その探求者自身に気づくことができる。
探すことをやめたので、それは探求者ではなくなる。
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それは何もしていないただの知的な存在だ。
非世界ではこの知的な存在だけがいる。
ということは、それに気づけば、それが自分ということになる。
それが個人に代わる本当の自分だ。
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それに気づいたとしても、困惑は続くことになる。
それが本当に自分なのか、どうやって証明すればいいか分からないのだ。
それが証明されなければ、個人が復活しようとするだろう。
そして個人は名前を捨てるなど愚かなことだったと後悔するかもしれない。
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だが、非世界に足を踏み入れた以上、個人の復活などはありえない。
私はそこで本当の自分を見つけて、それを証明することを迫られていた。
世界では個人に何らかの姿形があった。
それで、自分はこんな存在だと証明することができた。
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非世界では自分に何の姿形もない。
自分以外に誰も存在しないため、そこに姿かたちを認めることができない。
それでは非世界で分かることとは何だろうかと考えた。
それはそこに確かに存在しているということだ。
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