瞑想の声は私の終わりへと導く(9)個人の放棄

個人はこの世界に属している。

本当の自分は非世界に属している。

非世界とは個人にとって未知の領域になる。

そこは個人が存在できない領域なのだ。

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名前を捨てることができるか、瞑想でそう声が聞こえた。

私は非世界の入り口にいた。

そこから先に進むためには、私は名前を捨てなければならない。

私はこの道が間違っているのかもしれないと思った。

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その先に道は続いていた。

決して行き止まりではなかった。

だが、進むのを躊躇させる道だ。

後ろを振り返れば、美しい個人が輝いている。

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誇りを持ち、人に評価され、幸福を抱いている。

個人は私の中核であり、それを失うことなどできなかった。

瞑想して目覚めの道を行こうと決めたのは個人なのだ。

ところが、その道の先で名前を捨てよと言われる。

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これは私をとても混乱した状態にさせた。

私は目覚めた意識を持つ個人でいたかったのだ。

名前を捨てれば、その希望がこの場所で潰えることになる。

だが、個人としてできることの限界に来ているとは感じていた。

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だから、名前を捨てよという言葉には内心納得していた。

だが、それに個人のプライドが抵抗する。

いままで瞑想を続けてきたのは個人なのだ。

ところが、その個人はここから先へ行かせないという。

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個人にとっては、ここまで来て、まるで階段を外された格好になる。

個人のプライドはこの瞑想の仕打ちに対して失望を隠せない。

無理やり、個人のまま非世界に行くことも不可能ではない。

だが、非世界は個人を異質物とみなして排除しようとするだろう。

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これは個人が非世界のことを何ひとつ理解できないことを意味する。

もちろん、個人が非世界のことを理解したいのかどうかということもある。

個人はここから先に進む必要もないのだ。

十分に瞑想体験を重ねて、本当の自分についてもある程度知っている。

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私は悟っていて、これ以上の理解など必要ないと判断すればそこまでだ。

確かに悟っているし、その悟りでもかなり十分なのだ。

名前を捨てるというリスクを負ってまで、非世界に入る必要はない。

悟っているという自負とプライドを満たす評価があれば心は満たされているのだ。

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だが、まだ道はその先へと続いている。

ある程度悟った人はそのことを知っている。

それでも、そこでとどまっている。

その先に行くには、悟った人という称号を捨てなければならないからだ。

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悟った個人として人生を満ち足りて過ごすのか。

個人を捨てて、どうなるかわからない未知の領域へと足を踏み入れるのか。

ここは分水嶺となる場所だ。

私はここで名前を捨てた。

空風瞑想

空風瞑想は忘れてしまった本当の自分を取り戻す瞑想法です。瞑想の中で、今まで気が付かなかった心の新しい扉を開き、静寂でありながらも存在に満ち溢れ、完全に目覚めている本当の自分をそこに見つけていきます。そこを自分の拠り所にするとき、新しい自分の人生が始まっていきます。