瞑想の声は私の終わりへと導く(8)目覚めの道
私は様々な目的で瞑想を経験してきた。
結局、私の瞑想のそれは本当の自分とは誰かを知ることに落ち着いた。
それ以降、この目的が揺らぐことはない。
その他の目的は得ても過ぎ去るものであり、確かなものではないと学んだのだ。
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それがどんなにこの世界で価値があっても、目覚めの道にあるものではない。
本当の自分を知ること以外に目覚めの道にあるものはない。
私が何も知らずに瞑想をはじめて、確信が持てたことはこれだけだ。
ただ、様々な瞑想体験はそこに至る過程として必要であり、決して無駄ではなかった。
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「その男は神を探しに行って、神になって帰ってきた」
古の言葉にあるように、本当の自分を知るとはこういうことだ。
本当の自分を知るためには、まず神を知らなければならない。
そう分かっても私の瞑想は相変わらず不安定だったが、その目的は固く定まったのだ。
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そうなれば、瞑想の不安定さは取るに足らないものだ。
思考領域では思考やイメージは現れ、私を絡め取ろうとする。
身体の不快感もあり、ときには意識を失い眠ってしまうこともある。
静寂の深みに落ちて、満ち足りた心地いい感覚に浸ってしまうことも。
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いい瞑想をすることが瞑想の目的ではないのだ。
本当の自分を探求することがその目的だ。
その目的を掻き乱す障害は当然のようにあるだろう。
だが、目的があれば、その障害を超えていく意思が現れる。
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目覚めの道を行くためにはそのための正しい目的が必要なのだ。
その目的を見つけることが、目覚めそのものであるといってもいいくらいだ。
もし正しい目的が持てないなら、その道は行き止まりになる。
その行き止まりでじっとしているか、正しい道へと踏み出していくか。
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目覚めへの正しい道に合流するまで、多くの間違いを犯すことになる。
私も多くの間違った道を歩んできた。
道が行き止まりになって何度も途方に暮れた。
またそこから戻ることは疲れることであり、プライドもそれを邪魔をした。
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道は無数にあるのだ。
魅力的で惹きつけられる瞑想の道はいくらでもある。
それが世界のどこかまでしか続かないなら間違っている。
世界を超えることができてはじめてこの道が正しかったと分かる。
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本当の自分の理解はこの世界からはじまり、この世界を超えるのだ。
この世界の壁を超えなければ、本当の自分を理解することはできない。
だが、それが正しい道だと分かっても、世界を超えることに躊躇する。
私もその領域にすんなりと入ったわけではない。
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