瞑想の声は私の終わりへと導く(7)高次の存在
この世界で何を信じるかということについては慎重さが必要になる。
特に精神世界については注意深くならなければならない。
そこには心を惹きつける感動的な話や魅惑的な話がいくらでもある。
それは多くの人の心をとらえて離さない。
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高次の存在を信じるということはとても崇高なことに思える。
瞑想をすることさえ、その存在への信仰の一部になるのだ。
瞑想でその存在に触れて、それに自分を委ねることは悪いことではない。
それは強固なエゴを捨て去るためによい働きをするかもしれない。
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だが、逆に高次の存在に会ったという経験によってエゴが強化さることもある。
私はその存在を知っているが、他の人は何も知らないと思うのだ。
まるで自分だけがその友人にでもなったように高次の存在の話をする。
それを信じなければ、その存在に逆らうことになると言ったりもする。
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高次の存在をどのように定義するかは難しいところだ。
人それぞれに信じている存在が違うかも知れない。
信じているその存在の言葉もあるかもしれない。
それが違っているという理由で、他の存在を一括に否定することもできない。
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人によっては、どんなことであれ、それが人生で効果的に機能していることがあるのだ。
高次の存在への信仰とは何だろうか。
その信仰は人生の苦難から救ってくれるのだろうか。
救ってくれるかもしれないし、そうならないかもしれない。
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高次の存在への信仰とは気休めに過ぎないのだろうか。
そもそも高次の存在は存在するのだろうか。
それが存在しないのなら、その存在ににひれ伏すことは無意味なことになる。
私は高次の存在ついて懐疑的だったが、いまはそれが存在すると知っている。
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もちろん、それは私が定義する高次の存在についての話だ。
私はその存在に瞑想の空領域で出会った。
最初はそれが高次の存在だとは思わなかったが、徐々にそれだと確信してきた。
ただ、それを高次の存在といってしまっていいかは、いまでも分からない。
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その存在には明らかに姿形がない。
だが、確実に存在している。
その存在を認めるためには、姿形がないということを受け入れる必要がある。
それは決して光り輝いていたり、白い服を着て微笑んでいるわけでもないのだ。
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ただ、確実にそれは存在している。
その存在を否定することだけがどうしてもできない。
それは瞑想の中で実際に確かめられるのだ。
想像でもなく、思い込みでもなく、それは存在している。
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